「綾部はどうして穴ばかり掘るの?」

私は上から伸びる綾部の手を取りながら言った。暗い穴の中から見上げる太陽が眩しい。彼の手を掴むとぐいと強い力で上に引っ張り上げられる。なんとか地上に這いずり出て立ち上がると、綾部が私の腕や背中に付いた土をぽんぽんと叩いて払ってくれた。私はお尻を叩いて湿った土を落とした。

「だってまさかがかかるとは思わなかったんだもの」

綾部は小さな子どものように弁解する。目を伏せて私から視線をそらす。綾部は最近これを覚えた。昔は上目遣いで許しを乞うてきたものだけれど、今は随分と綾部の身長の方が高い。その上目遣いが私に使えなくなってから、言い訳をするときはこうして憂いを帯びた表情を見せるようになった。もちろん彼はすべて無意識でやっているのだろうけれど、コレが私には効果覿面だから困る。綾部の悲しそうな顔は苦手だ。

「怒ってる?」

ここで綾部は私を見る。この視線を下から上へ上げる仕草にも私は弱い。すぐに「怒ってないよ」と許してしまいそうになる。本当のことを言うと私は綾部の穴に落とされからといって全く怒っていないし、どちらかと言うと穴から出るのを助けてくれた綾部に感謝していた。落とし穴に気付けなかったのは自分が未熟だったからだと思っている。下級生でもちゃんと分かるように目印を置いてくれただろうからそれに気付けなかったのは私の落ち度だ。上級生になってまで穴に落ちる自分が恥ずかしい。

しかしそれは私にとっての話で、綾部があちこちに穴を掘るものだから下級生や保健委員が次から次へと穴に落ちるのは事実だった。数日前も私の委員会の一年生が引っかかってしまったばかりだった。幸いにも怪我はなかったが。少しお灸を据えておくのも良いのではないかと思った。



と綾部が不安そうな声で私の名前を呼ぶ。黙ってしまったのを怒っているものと勘違いしたらしかった。誤解を解こうと私が口を開くと綾部の「じゃあ」と言う声が被さった。

「じゃあの言うこと何でもひとつ聞いてあげる」
「え、本当に?」
「穴掘るな以外の願いだったら何でもね」

それは何でもって言わないですよ綾部さん。それでも綾部がこんなことを提案してくるなんて珍しいことでいつも滝に怒られたってそ知らぬ顔をしているのに。余程黙っている私が不機嫌だと思ったらしい。本当はそうでは なかったのだけれど、そう言われたら何かお願いをしたくなってしまうものである。

「ないの?」
「あるよ!あるけど、えっと、うーん…」

そう言われると何をお願いするか悩んでしまう。もっと滝の言うこと聞いてあげてだとか、下級生が沢山通るところには穴を掘るのを配慮してあげてだとか、今度お団子奢ってだとか、宿題やるの手伝ってだとか、そんなことばかりが頭に思い浮かぶ。でも、どうせだから綾部にしかお願い出来ないことをしたい。

「かっこいい綾部が見たいな」
「えっ」
「えっ?」

ふたりしてびっくりした顔を見合わせてしまう。綾部が私の言葉にびっくりしたのを見て初めて自分が何かおかしなことを言ったことに気が付いた。

「いつもの私はかっこよくないって言うの?」

私はなんて変なことを言ってしまったんだろう。綾部はきちんと謝ろうとこの提案をしてくれたのに、こんな阿呆なことを言ってしまうなんて呆れられるに違いない。そうじゃなくたって気分を悪くするに違いない。

「いや、そういうわけじゃないけど」
「じゃあかっこいい僕って何」

そう言って綾部は口をとがらせて拗ねてしまう。口調も少し幼いものになっている。ちがう、違うんだよ。かっこいい綾部っていうのは普段の綾部が格好良くないとかそういう意味じゃなくて、綾部はいつだってかっこいいと思ってるよ。

「僕じゃあドキドキしない?」

そう言って綾部はすっと私との距離を詰めた。触れるか触れないか微妙なところで頬をなでられる。もう私と綾部の距離はほぼゼロで、お腹とお腹があと少しでくっついてしまいそうだったし、鼻と鼻も触れてしまいそうだった。

綾部の伏せぎみの目を縁取るまつげが長かった。

こうして近づいてみて初めて分かったことだが、綾部と私の身長はいつの間にか随分と開いていて、ゼロ距離の今は綾部の顔を見るためにはほぼ真上を見なければならなかった。背中はこれでもかってくらい反っていて、綾部がこれ以上顔を近づけてきたら後ろに倒れてしまうだろうなって思っていたらすっと綾部の腕が私の腰に回った。これで倒れそうになっても綾部が支えてくれるだろうけれども、それと同時に逃げ道もなくなってしまった。

「綾部はちゃんとかっこいいよ」
「本当にそう思ってる?」
「思ってるよ」
「ならいいけど」

そう言って綾部は私の瞳から目をそらした。綾部の大きくて澄んだ瞳から解放されて私はほっと安堵の息をついた。

「でもこれはおしおき」

その声に視線を上げると、綾部の顔が再び近づいてくる。ちゅっというかわいい音がして綾部の唇が私の鼻に触れた。

「これでは私を見るたびにドキドキしてくれるかな?」

いつだって綾部を見るたびに私の心臓はドキドキうるさいのに、これ以上だなんてしんでしまうんではなかろうか。

息する魚