ぺたり。

左頬に冷たい感触。何事かと思って横を見ると私の頬へ向かって手が伸びている。その腕は紫色の装束に包まれていて、その先には色素の薄い大きな目が私を見つめていた。

「あーやーべー。ねぇ綾部は一体何がしたいの?」

私はぺたりと顔に貼り付けられた手を掴んで下ろす。その手を脇にしっかりとつけてやると彼は私にされるがままに直立の体制を取った。

「毎回毎回汚れた手で触ってきてどういうつもり?私は綾部に会うたびに顔を洗いに行かなきゃいけないんだけど」

綾部はよくこうして気配もなく私のすぐそばまで近づいてきては土に汚れた手で私の顔を汚してくるのだ。気配に気づけない私にも問題があるのだろうけど、本当に綾部は気配を消すのが上手で気がつくとすぐ近くまできているのだ。

嫌がらせなのだろうか。先輩に対する不満か委員会活動に対する不満だろうか。それとも綾部はいたずら好きなのだろうか。どちらにせよ困る。何かあるのなら口で言ってくれればいいのにと思う。けれどもこの程度のかわいいものなら本気で私を嫌っているわけではないだろうと思って放っておいてしまう。それがいけないのだろうか。一回びしっと言った方がいいのだろうか。

先輩は嫌なんですか」
「汚れた手は困るよ」

言う。はっきりと言ってやった。言ったけれども肝心の綾部はいつもと同じ様に私を見上げている。ちゃんと通じているのかどうか自信がない。そして通じていても綾部が聞き入れてくれるかどうかはまた別問題だ。

「今は急いでないからいいけど、急用があるときにそれやられたらさすがに怒るよ」

大抵綾部にこうしていたずらを受けるのは暇なときばっかだが、もし何かの当番や授業に向かう途中など急いでいるときにやられたらいらっとしてしまうだろう。多分。まぁそんなに先を急いでいるときなんて滅多にないだろうけど。少なくとも今までは一度もない。

「それに、綾部もそんな汚れた手でずっといたら衛生的にも良くないよ。ちゃんとご飯食べるときには洗ってる?」
「そうですか」

綾部は分かってるんだか分かってないんだかどちらとも取れない顔でそう言って、何か考え込むように顎に手を当てて「ふむ」なんて言う。ああ、汚れた手で触ったら顔汚れちゃうってば。ぱっと綾部の手を取ると思ったとおり顎のところにしっかり泥がついてしまっている。

「ほら、一緒に顔洗いに行くよ。穴掘るのはいいけど、その後はちゃんと手洗わなきゃダメだからね」

私は綾部を井戸まで連れて行こうと彼の手首を掴む。綾部の手のひらは汚れているから手首。私が歩き出すと綾部はきょとんとした顔をしていたけれど、おとなしくついてくる。私が掴んだ手首をじっと見てはいるけれども、何も言ってこないから私はずんずんと歩く。黙ってついてくる綾部はなんだか弟を持ったみたいでかわいらしかった。

*

ちゃんは綾部くんに懐かれてるねぇ」

ご飯をもぐもぐ食べてると隣の友人がぽつりと言った。突然何を言い出すのだと思ったら向こうに座っている四年生を見て綾部のことを思い出したのだと言う。そういえばあそこに四年生が固まって座っているがそこに綾部の姿はなかった。

「うーん、懐かれてるというか遊ばれてるというか」
「作法委員会は仲が良くていいね。綾部くんはちゃんのことが好きなんだね」
「そうだといいんだけど」

表面上は普通に返事をしながらも、友人の言葉にこっそりとドキリとする。そんなに懐かれているように見えるだろうか。綾部はマイペースだからそれに私が巻き込まれていると言った方が正しいのかもしれないけれど。そんなに仲良く見えるだろうか。綾部に慕われているという感覚はないけれども、他人から見ると仲良し姉弟のように見えたりするんだろうか。

「あ、そろそろ委員会の時間だ。ごめん、先に行くね」

私が考え込んでる間に友人はお盆を持って立ち上がる。「うん、頑張ってね」と手を振ってそれを送る。作法委員会は今日の昼休みは活動がないので暇だなぁとぼんやり考えながら自分も箸を置く。

お盆を下げておばちゃんにごちそうさまと一声かけて食堂を出る。暇だから今日はのんびりお昼寝でもしようかなぁと考えながら廊下を進む。お昼寝にはどこが一番いいだろうか。

先輩」

そう呼ばれてくるりと振り返るとぬっと手が伸びてきた。反射で体をのけぞらせて避けようとしたけれども、その手は私を捉えて頬にぺたりとくっついた。私の心臓はまたドキリと一度だけ大きく跳ねた。誰がこんなことを、と考える必要もない。綾部だ。こんなことをするのは綾部しかいない。いつものように土の付いた手で私の顔に触れて。

「綾部、また汚れた手で…、ってあれ?」

注意しようとして、いつもと違うことに気が付いた。泥のひやりとする感触も、土のざらざらとした感覚もない。びっくりして綾部を見たが、彼は変わらず大きな目をこちらへ向けているだけだった。

「今日はちゃんと洗ってきましたよ」
「うん…。えらいね」

綾部の左手を見てもいつものように土で汚れてはいない。一体どういう風の吹き回しだろう。私が今までいくら言ってもやめはしなかったのに。いや、顔を触るという行為はやめてはいないが、洗った後の手でというところは進歩している。私の言うことを聞いてくれている。私がびっくりして固まっていると綾部はそのままぺたぺたと私の頬に触れる。むにむにと頬肉をつまんでみたり、ぺちぺち叩いてみたり。一体この子は何がしたいのだろう。別に私の顔に土が付いて汚れもしないので、怒るに怒れない。

「あやべ、一体何してるの?」
先輩のほっぺはやわらかいですね」
「うん、そうじゃなくて、どうしてこうしているのか理由を教えてほしいな」
「今日はちゃんと手を洗ってきたので問題がないと思って」

微妙にずれた答えが返ってくる。綾部の考えてることは分からない。綾部の思考回路が辿れない。綾部はどうして私に触れているのだろう。

「あやべ、手離してくれないかな」
「どうしてですか。手はきれいです」

するりと綾部の手が頬をなぞる。綾部の手は彼の頬と同じ様にぷにぷにしていると思ったのだけれど、意外にも彼の手はごつごつとしていた。多分穴を掘るときに出来たタコやマメだろう。今まで綾部の手は土にまみれていて、こうしてきちんと触れることはなかったから分からなかった。綾部は分からないことだらけだ。

「嫌です。先輩にはもう拒む理由はないでしょう?」

そうして私は綾部の瞳に吸い込まれてしまった。

 わがままな論理