私は海辺の家に住んでいた。ざぁんざぁんと波が崩れる心地よい音が絶え間なく聞こえる。私はそれを子守歌にして眠ったりして、心を静められるこの音は読書するのにぴったりだった。この家ですることはほとんどない。訪ねてくる人も誰もいない。一緒に住んでいる人もいない。ただ一匹、猫が我が物顔でいつの間にか住み着いていた。ゆるゆるとゆっくり時間が流れる海辺の家で私はゆるゆると老いてゆくのを毎日をぼーっと過ごして待っている。夫が死んでから、もう十年もそうして生きていた。長いのか短いのかもう分からない。 「さん、」 と私の名を呼ぶ声がして見ると人影があった。「六道くん」と私は彼の名前を呼んで返す。忘れていた。彼は私を訪ねてくるただひとりの人物で一ヶ月くらい前から週に3回くらいのペースで海辺の家にくる。何が目的なのかは分からない。 「ご飯、食べましたか?」 「いいえ」 「だと思いました。冷蔵庫の中も空っぽだと思って買ってきました」 そう言って彼は提げたスーパーの袋を見せた。「ちゃんと食べなくては駄目ですよ」彼はキッチンにその袋を置いた。 だって、と私は心の中で言う。だって私にはもう待っていてくれる人はいないもの。 「何か食べたいものはありますか?」 「特にはないわ」 「じゃあ適当に作りますよ」 ため息ひとつ付いて彼は料理を始める。 こうして彼はちょくちょくここへ来ては食材を届け、料理を作って帰っていく。おかげでここ一ヶ月そこそこ健康な日々を送っている。町まで買い物に行くのに道のりは長いので彼にはとても感謝している。ただひとつ疑問なのは、二十代前半に見える若い彼がどうしてこんな何もない家にくるのか、ということだ。こんなおばさんが住んでる家に来て何が楽しいのか。ずっと聞けなかったことを今日こそ聞こう、と毎日思っている。 「もう、忙しかったら来なくてもいいのよ。大学は?彼女とかいるでしょう?」 「なぜそんなことを言うのです」 「なぜって、あなたがここにくることの方が不自然だわ」 「、忘れてしまったのですか」 キッチンにいたはず彼はいつの間にか目の前に立っていた。正面から真っ直ぐに私の目を射抜いている。「忘れてしまったのですか」ともう一度彼は言った。何のこと?と尋ねると彼は少し悲しそうな表情を見せた。私は本棚の隣にある写真立てをそっと見た。かつて私が愛したひと。そのひとに彼が似ている訳ではない。むしろ全く似ていないと言ってもいい。それなのに私は昔彼をあいしていたような気がした。いまこの瞬間。それくらい彼はとても懐かしい感じがした。 ざぁんと音がして波がひとつ崩れた |