男はふと足を止める。グチャともベチャともとれる不愉快な音がした。顔をしかめ、ゆっくりと今下ろしたばかりの足を上げる。ネチョという音が聞こえてきそうだ。実際、こんなうるさい街でそんな小さな音が聞こえてくるはずないのだが。聞こえなくても上げたときの抵抗力で分かる。全く、この街は来る度に不愉快な気分にしてくれる。このベトベト感よりも、これが他人が吐き捨てたものだという事実が不愉快だ。他人がついさっきまでくちゃくちゃと噛んでいたものが今は自分の靴の裏についているだなんて!ぞっとする。あなたもそう思うでしょう?男は心の中でそっと問いかける。誰に?またそんな自分に舌打ちして、グリグリと多少乱暴に靴と地面を擦り合わせる。すこしだけベトベトがましになったように思えたのでまた歩き始める。違和感はあるが歩けないほどでもない。目的地はすぐそこだ。どうしても気になるならそこでゆっくりガムを剥がせばいい。ここに長いこと立ち止まっているのはよくない。人通りの多いこの道で立ち止まっているのはきっと自分くらいだろう。誰もが皆早足に脇を通っていく。彼らは皆自分がどこへ向かっているのか分かっているのだろうか。多分、分かっていないだろうに。そうして男は目的地へと向かって再び歩き始める。

*

女は視界の端に男の姿を確認すると背筋を伸ばし、一口だけ紅茶をすすった。甘い香りが鼻腔をくすぐる。どうして私はこの紅茶を選んでしまったのだろう。こんな甘い匂い、嗅いでいたら頭がボーっとする。考えが全然まとまらないじゃないの。そうしている間に男が店内に入ってくる。大丈夫、頭の中には言うべき台詞がきちんと入っている。大丈夫よ、

「こんにちは。待たせて、しまいましたか?」
「いいえ。貴方が本当に来てくれるなんて。嬉しいわ」

男が席に付く。さらりと流れるような動作で。美しい。どうしてこの男はこんなにも美しいのだろう。男と女の違いがなかったとしても決して私にはできないだろう。何がそうさせる?本当は奥底にドロドロとした暗いものを抱えているのにこんなの詐欺だわ。彼がコーヒーを頼んだので、ついでに私も頼む。二人はお互いに黙りこくっていた。店員がすっとコーヒーを持ってくるまで。

「今回は何のお話で?まさか僕とデートしたかったなんて言わないですよね」
「ありえないわ」
「そうですか。少し期待していたのですけどね」

そう言って男は微笑んだ。こいつにはまだ笑う余裕があるのだ。多分、これから話されるであろう内容を分かっているのに、だ。知っていてもまだ余裕がある。私に対しての見せつけだ。憎らしい、と思った。すぐに余裕も全て奪い去ってやる。

「さっそく本題に入ろうかしら。私はともかくあなたは忙しい身でしょうし、ね」
「僕のことなら気にしないでください。今日はあなたのために丸一日空けときましたから」
「あら、そんなに時間はとらせないわ」

女はゆっくりと唾を飲み下した。口がカラカラに渇いていた。それでも飲み物に口をつけることはしない。そんなの、緊張しているのがバレバレじゃないの。平静に、余裕たっぷりに聞こえるように努力したが、実際聞こえてきた女の声は無表情で無機質な声だった。

「…あの日、あなたは何をしていたの?」
「あの日、というのはいつのことです?」
「うちのボスが暗殺された日よ」
「なんのことでしょう?」
「思い出せないのなら教えてあげる。あなたはうちのファミリーのアジトにいたのよ。それもボスの部屋に、ね」

そこでたっぷりと間を置く。男は喋らない。この間が重要なのだ。その間に相手を観察する。動揺するか、恐怖に慄くか、男の顔が醜く歪むか。その瞬間を楽しむのだ。きっともうすぐこの男から余裕なんてもの、なくなる。楽しみだわ、と女は思う。

「あなたが殺したのよ、私のボスを」

それが異様に店内に響いたように思えた。この男の耳にもこの言葉が刺さっただろうか。この男のこころにもこの事実が刺さっただろうか。あなたがころしたのよ。彼にとってとどめの台詞を吐いたつもりだったのに、男は表情ひとつ変えずゆったりとコーヒーをすすった。

「それが、どうしたというのです?」

このおとこはいまなんといった?それがどうした、と。わたしの世界が豹変するほどの事件をそれがどうした、と言うのだろうか?そんな陳腐な言葉ひとことで片付けようと?

「ああ、もしかして仕事がなくなったことを怒っているのですか?だったら僕がボンゴレに賭けあってみましょう。僕が二言三言言えばいいだけのことです。ボンゴレ十代目はひどく情深いことで有名ですから」
「そんなことを言ってるんじゃないわ」
「では金ですか?」
「いいえ。私が欲しいのはあなたの、命よ」

男は一瞬きょとんとした表情を見せた。しかしそれもすぐに引っ込んでまた元の無表情に戻った。女は男の瞳を見据える。男も同じく。僕をころす?あなたが?一体どうやって?

「もしかして、あなたはあの男をあいしていたのですか」

しばらくして男はそう言った。あなたはあのおとこをあいしていたのですか?女は喋らない。静かに俯いたまま沈黙を守っている。なおも男は喋り続ける。

「クハハそれは傑作だ!しかしあなたほどの女性があの程度の男に惚れるとは勿体ない」

もうあなたと話すことはありませんね。そう言って男は会話の終止符を打った。女は何もいわない。つぅっと女の口の端から赤いものが伝う。

「さよなら、さん」

僕はあなたを気に入ってたんですがね。非常に残念だ。そう言って男は席を立った。彼が店を出ると同時に女はドサリと床に倒れこむ。

  

その中にひとつ、赤だけが鮮やかに艶やかに

白の闇