初めて出会ったのは実家の近所の沢田さん家の前だ。とても素敵な人だなぁって私が一目惚れしてしまったのがきっかけだった。彼は沢田さんちの家光おじさんと綱吉さんに用事があるらしく、ちょくちょく出入りしていた。最初は「こんにちは」の挨拶から始まって、それが段々長くなって、世間話とかどうでもいい自分の話をしたりして、ついに私が告白するとなんと彼は「いいですよ」と返事をしたのだ。正直、玉砕覚悟で言ったのでそんな返事がもらえるなんて思ってもみなかった。嬉しくて、舞い上がっていた私に彼は言った。「ただ、これだけは最初に言っておきますね」

「待てなくなってしまったら別れたことにしちゃっていいですから」

最初に彼が言った言葉。その頃の私はその意味を十分理解しないまま「待てるよ!そんなこと絶対にありえない」と意気込んだ。だって、こんなに好きなのに。それを伝えると彼は微笑んで、

「拙者の仕事は普通と少し違うので。そのせいでおぬしにかなしい想いをさせたくないのですよ」

と、私の頭を優しい手つきで撫でながら言った。「何も言わずが待っていてくれるなら他に何もいりませんから」それは私も 同じだよ。


















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彼と一晩ともに過ごしたあとは、離れるのがつらくなる。いつだってそうだ。コチコチと時計の針が進むたび、少しずつ少しずつ時間が近づいてきて、背中のぬくもりが離れる。

「もう、時間?」
「ええ、もう行かなくては」

きっとまたしばらく会えない。次はいつ会えるのだろうか。次はいつ来てくれるのだろうか。そんなことばかり思う。早く会いたい、まだ離れてもいないのに。彼はまだ私の手の届く距離にいるのに、彼のぬくもりが恋しい。この場で抱きつくのは簡単だけれどもそうしたら離れられなくなるのは分かっていた。これが淋しいという気持ちなのだろうか。でもこの感情は、とてもそんな一言で片付けられない。一歩一歩、彼が玄関へ向かって歩いていくのが、そのまま私たちの心の距離まで表しているような気がして。少しずつ少しずつ、彼の心が私から離れていってしまうような気がしたのだ。

「バジル、行かないでよ」

その一言は言ってはいけなかったのだ。もうすでに玄関の扉に手をかけていた彼はその動きをぴたりと止め、でもこちらに背を向けたまま言った。そこで初めて私はハッと口をつぐんだ。

「待てないのなら、別れていいですから」

さらりと言い放たれた言葉。彼の表情は見えない。パタンと扉が閉まる音がして、そこで私は我に返った。自分が軽々しく言った言葉の重大さを理解した。決して、言ってはいけなかったのだ。どんなに心の中で行かないでほしいと思っていたって、言ってはいけなかった。彼は、私を、軽蔑しただろうか。待っているって言ったのは私だったのに。待てるって自信満々に宣言したのは私だったのに。あんな風に押し付けるようなこと言ってはいけなかった。彼の荷物になってはいけなかったのに。彼はそれが嫌だから最初にああ言ったのに、どうして私はそれを裏切るようなことを言ってしまったのだろう。今さらどんなに後悔しても遅かった。もう、自分の口から出た言葉は 戻ってこない。

















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あれから1ヵ月が経った。彼に何度か電話をかけたが一度も連絡がつかない。元々彼が仕事のときはいつ電話をしても繋がらないことが多かったし、メールだって返ってくることは稀だった。それでも最低でも月に1回ぐらいは連絡が来ていたのに。もう、私たちは終わってしまったのだろうか。帰り道、星を見上げながら思う。せめて、あの時追いかけていれば、きちんと別れの言葉を彼の口から聞くことが出来ただろうか。

「バジル、」

もう、会えないのかな。私は彼の家も知らない。仕事場も知らない。今、どこで何をしているか知らない。彼が教えられないのは知っていて、それでいいって言ったのは私だから、もうこれ以上は言わない。私だって馬鹿じゃないから。同じ失敗は繰り返さない。ただ、この場に彼がいないのだからその誓いは無駄だとも言えた。

「あの人は絶対帰ってくるって分かってるから」

そう言ったのは奈々さんだったか。いつだか私が家光のおじさんが仕事でほとんど帰ってこないのは淋しくないのかと聞いたときの答えだ。「さびしいわよ」と彼女は言ったあとで、でもねと付け足したのだ。そのときの言葉を私は思い出していた。ねぇ、奈々さん、私の場合はどうしたらいいですか?もう、彼は帰ってこないかもしれない私はどうしたらいいですか。さびしくてさびしくて、仕方がないのです。

あのときの淋しさがどんなに小さいものだったかを思い知る。また、ほんの1ヵ月会えなくなるかもしれないってだけだったのに。どうして待てなかったのだろう。もう、二度と会えないかもしれないこのさびしさ、かなしさに比べればなんてことはない。バジル、と何度名前を呼んでも返事は返ってこない。私はもうあなたの彼女ではないのでしょうか、と問いかけても答えは返ってこないのだ。

もうすぐ家に着く。親の元を出た私は今はマンション暮らしだ。部屋の明かりは点いていない。彼は、いない。それを確認して視線を正面に戻すと、マンションの前に見知った姿がひとつ。最初は幻だと思った。「、」と声まで私の知っている人と一緒だった。私は呆然と立ち尽くしてしまった。

「バジル、なんで、どうして、ここに…?」
「仕事が終わって飛んできたんです」
「どうして」
に会いに来たに決まってるじゃないですか」

「もっとも、もう拙者にそんな資格ないのかもしれないけれど」と小さく付け足す。なんで、なんで会いに来たの?バジルはもう私に幻滅したんじゃなかったの?

「せめて、拙者はもうに捨てられたのかどうかだけでも確認しようと思って」

誰が、誰を捨てるって?私がバジルを捨てるわけないじゃんか。どうして。愛想尽かすとしたらバジルの方でしょう。私あんなことひどいこと言ったのに。「怒ってないの?」と聞くと彼は首を傾げるので「行かないでって言ったこと」と付け足すと彼は、どうして?と尋ねた。

「どうして怒れるんです?待っててほしいのは拙者のわがままなのに」

がつらいの分かっててそれを強いてるのは拙者なのに、と言う。

「待つことに疲れてしまったのなら、どうか正直に言ってください」

私は返事をする代わりに彼の腰にぎゅっとしがみついた。「?」と戸惑った声色が上から降ってくる。声を出すことが出来なくて、ただふるふると頭を振る。喉がきゅっと絞まって声が出ない。何か一言でも発せばそのまま涙まで出てしまいそうだった。彼をこれ以上困らせたくないから、泣かない。

「他の人と付き合えばこんなさびしい思いしなくてすむんですよ?」

確かに友達なんかは、毎週末彼氏とどこかへ出かけたり、毎日メールをしてたりする。私はそれを密かに羨ましいと思ってたりもした。でもそれはバジルとじゃなきゃ意味がないんだよ。他の誰かとしても全然楽しくない。会えなくても、それでも、私が好きなのはバジルなんだよ。分かってよ。

「バジルこそ、私でいいの?」

待ってるのが私でいいの?バジルは顔もいいし、すごく優しいから、きっと想いを寄せる子は大勢いるだろうに。私の代わりなんていくらでもいるだろうに。私とは違い、彼は恋人に事欠くことはなさそうなのに。私なんかが待ってる必要性はないように思えた。いないならいないで平気だと思っていたのに、

「待っててほしいのはだけなんです」

「あの人が待っててくれって言ってくれたから我慢できるの」奈々さんの言葉が反芻される。確かにその通りかもしれない。そう頼まれたら一生でも待ち続けられる気がした。 彼が私を必要としているというだけで。