私は居間で床に寝転がりながら本を読んでいた。ひどく暇だったので。けれども、内容が頭には入らず、ただ文字を目で追うだけ。こんなの、読書とは言えない。けれども、視線がページの端まで行くと、自然と手がページを捲る。ただの事務的な作業。果たしてそれに意味はあるのか。どうやら本を読む気分じゃないみたいだ。あ、今同じ行を2回読んだ。そのままパタンと本を閉じる。栞を挟むのを忘れてしまったけれど、どうせ全然読んでいないのだから。あってもなくても同じことだ。本を投げ出して寝返りを打つ。何か面白いことないかしら。 そういえば昔読んだ本に、鏡から別の世界へ行く話しがあったなぁ。 そう思って部屋にある鏡に目をやるが、それは普通の鏡でとてもじゃないけれど別世界の入り口には見えなかった。一応起き上がって鏡に触れてみる。もしかしたら別世界の入り口は案外近くにあり、それはとても普通な外見をしているかも知れないから。皆そうして見落としているのかもしれない。 けれども、私の触れたその鏡はひんやりと冷たく硬い感触で、不安そうな自分の顔が映っているだけだった。

「鏡の前で、何をしているのです?」

驚いて振り返る。「バジル…」 彼はずっとその場にいたかのような自然さで窓際に立っていた。夕焼けの橙を背負っていて、それは優しさと淋しさをまとっていた。その姿は私の心臓をきゅっと締め上げる。私は驚いて声が出なかった。いや、原因は驚いて、だけじゃなかったと思う。私の中に言葉にならない何かが込み上げてきたのだ。けれどもそれは空気振動ではなかったので、声にはならなかった。ただそれだけだ。 たっぷりと間が開いてから私はやっとの思いで口を開いた。

「一体どこから入ってきたの?」
「窓からです」
「扉から入ろうよ」

そうですね、と彼は言う。言うべきことはそうではないだろうに。私も、彼も。もっと別の、言うべきことがあるだろうに。何しに来たの、と問うと「おぬしを攫いに」と彼は答えた。

「少し、付き合ってもらえますか」
「嫌だと言ったら?」
「攫いに来たと言ったでしょう?」

無理にでも連れて行きますよ。そう言って彼は窓辺から離れたかと思うと、私を持ち上げた。ふわりと。それがあまりにも突然で、あまりにも自然で、あまりにも優しい動作だったので、私は何も抵抗出来なかった。鏡に私と、彼の姿が映った。左右反転しているがそれはまさしく私だった。鏡の中の私は脚を持ち上げられ、俗に言うお姫さまだっこというやつで。そのまま彼はすたすたと歩いてゆく。今度はきちんと扉から部屋を後にする。そのまま玄関を通って外へ。さっきの柔らかな表情と一転し真剣な面持ちだった。「バジル、」と呼び掛けてみる。それでも彼はただ前を見つめていた。返事はない。一体どこへ行くの?彼はその問いにも答えなかった。私はどうしていいのか分からなくなって、ただぎゅっと彼の服を掴んだ。彼の匂いがするだけだった。幸いにも外を歩く人はおらず、藍色の世界が私達の姿を隠していた。抱っこされて歩くのは少し恥ずかしがったので。

「バジル、どこへ行くの?」

あなたとならどこへでも、と言って彼は笑った。また答えはもらえないのだろうと思っていたから意外だった。目的地に着くまで質問はなしなのかと。駄目元で聞いてみたのに。もしくは、私が聞かずにはいられなかった。けれども彼は微笑んだ。そうしてゆっくりと私を地面に下ろした。青い瞳で私を覗き込む。私の心臓は早鐘のように鳴った。 嘘、みたいだなぁと思った。バジルにこんな風に抱っこされて歩くなんて、嘘みたいだ。夢みたいだ。もしかしたら、私は鏡に触れたときに異世界に来てしまったのかも。だって、こんな物語的な。

「もし、行くあてもなくおぬしを連れ出したとしたらどうしますか?」

おぬしを連れて行って見せたい綺麗な景色も、渡したいプレゼントがあるわけでもなく、ただおぬしを連れ出しただけだとしたら?おぬしは怒るでしょうか、と問い掛けた。怒る、わけない。どうして怒ったりするだろうか。私はバジルのことが好きなのに?あなたがいないと何も楽しくない。そもそも私は怒ってなどいなかったのだ。ただ、淋しかっただけで。哀しかっただけで。特別な日にあなたといられなかったことが。

「そして、叶うことなら、来年もまたこうしておぬしの隣にいることを 許してほしい」

そう言うと彼は私の手を取り、甲に口付けた。それは請うというより、誓いに近かった。誓いというより、祈りに近かった。触れられた手がひどく熱かった。多分、きっと、私の顔は赤くなっていたと思う。とっさに視線が下へ行ってしまう。俯く。なんで、自分はこんなに恥ずかしがっているのだろう。バジルのこれは今に始まったことじゃないのに?

「来年こそ一緒にいなかったら、それこそ怒るよ?」

許さないから。覚悟してね。 彼は望むところです、と。挑発的な目で私を見た。青い、片目。それと、髪の間から覗く青。チカチカと街灯が、点いては消え、点いては消えた。淋しげな灯りだった。もっと、しゃんとしなさいよ。私は街灯を励ました。あなたはもっと輝けるはずでしょう?

「今の言葉、忘れないでくださいね」
「忘れないよ」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
「これから、どこかへ行きますか?」
「どこへ?」
「まったく考えていませんでした」

彼は正直に白状した。衝動的におぬしを連れ出したのです。さっきもそう言ったでしょう?私はバジルと一緒にいられればそれだけでいいよ。

「バジル、私今重要なことに気が付いた」「何です?」「私靴履いてない」  靴のない私は彼に背負われて。

070415 こっそりもえちゃんの生誕を祝して