私は洗面所でひとりしくしくと泣いていた。

彼の家の洗面所。洗面所の隅っこ、洗濯機の横に出来るだけ身体を縮こめて、息を押し殺し、嗚咽を堪えて泣いていた。ただ、かなしかったから。その家には人のいる気配が全くなくて、洗濯機も動いていないし、蛇口から水滴が零れ落ちる音もしない。私が発する物音以外ないのだ。それが私をいっそうかなしくさせ、また涙がぽろぽろ零れてしまった。床が水浸し。

ガチャリとドアが開く音がした。彼が帰ってきた。リビングを歩く音。彼が上着を脱いで、それをソファーに置く音。冷蔵庫を開ける音、閉める音。そして、寝室の扉が開く音。  そこまでくると音はくぐもってよく聞こえなくなった。ただ、彼が歩く音は微かに鈍く聞こえる。私はまたしくしくと泣き出してしまった。こんなに近くにいるのに、こんなにも遠かった。

心の中で何度も何度も呼ぶ。けれども、口には出さず、声は出さず、嗚咽を堪え、身体をよりいっそう小さくして、見つからないようにしてる。見つけてほしいのか、見つけてほしくないのか。

と、ふいに扉が開いて、見上げると彼が目の前に立っていた。彼は表情を変えず、「一体どこにいるのかと思ったら。どうしてこんなところにいるのです?」と問うた。私が「なんで分かったの?」と質問に質問で返すと、彼は「分かります、それくらい」とだけ言った。だって、靴だってわざわざ見つからないように隠して、鍵も元通り閉めて、部屋のどこもいじっていなくて、絶対ばれないと思ったのに。どうして分かったのかなぁ

「なんで泣いているのです?」
「かなしいから」

彼も当然分かりきっているだろうことを言った。彼だってそんなことを聞いているんじゃなかろうに。それでも彼はそんな私に付き合ってくれた。しゃがみ込んで、私に目線をあわせて、それでも私が床を見詰めていると彼は私の目を覗き込んだ。青い目。

「何がかなしいのですか?」

なにがかなしいの?ああ、この気持ちを一言で言い表せたらいいのに。なにがかなしいかと問われて私ははっきりと口に出すことが出来ない。あえていうなら、この家から人の気配がしなかったことがかなしかったのかもしれない。

「泣かないでください」
「なんで、」
「それは殿が大切だからです」

このよで一番失いたくない人なのです。 彼はそう言ってあの青い瞳で真っ直ぐに私を射抜いた。やさしく親指で私の涙を拭ってくれる。でも彼の指が頬に触れる度にまただらだらと涙が流れた。彼は私の涙を受ける。拭っては流れ、流れては拭う。きりがない。  かなしいことは全部涙と流してしまえばいいんですよ。 涙が出ないときはどうするの?  現に私の涙は枯れかけていた。かなしみは残っているのに。

「こうすればいいんです」

と彼は蛇口をひねった。勢いよく水が流れ出す。ザーザー。排水溝に飲み込まれていく水。

「涙が枯れたなら、この水と一緒に流せばいいんですよ」

ザーザー。落ちていく水。彼は私の頬を撫で、髪を撫でる。どこまで、やさしいひとなんだ。私に泣かないでほしいと言い、私の涙を拭い、私のかなしみを水道の水で流そうとするひと。意味が分からないわ、と言うと彼は困ったように笑って「拙者も少し、必死なのです」と言った。

「どうか泣かないで」

彼はまた私の涙を受け止め、蛇口からは水が流れ落ちる。


ブルーワールド

07.03.17