最後のデートは水族館だった。

「うわぁ、すごーい!」

彼女は歓声を上げ、その水槽、と言っていいのだろうか?とても大きなガラスで床から天井まで一直線に、筒状に区切られた水の壁の向かって走り出した。

「ねぇ、バジルも早くおいでよ!すごいよ」

無邪気にこちらに向かって大きく手を振る。「お魚いっぱい」と本当に嬉しそうに言う。子どものように喜びの感情を表に出せる彼女を見ているのは面白い。拙者が歩いて殿のもとへ辿り着くまでの間にも彼女はガラスにぴたっと手をつけて、魚が目の前を通るたびに「わぁ!」といちいち驚いていた。そんなところも嫌いじゃない。嘘。好きだ。 水槽の前までくるとその大きさに圧倒されてつい声を上げてしまった。「わぁ…、」 
美しさに圧倒されてしまった。水槽の中では様々な魚たちが悠々と泳ぎ回っていた。水は青くゆらゆらと、そしてキラキラと幻想的に光を反射させていた。その屈折した光が彼女を照らし出していた。ガラスにはそんな彼女の姿が映し出されていた。万華鏡みたいだ。

「ねぇねぇ、このお魚なんていうのかな?」
「さぁ、」
「かわいいねー」

脇にはこの水槽に住んでいる(飼われている)魚の名前と簡単な説明が写真付きで示されていたけれども、そのプレートを見ても似たような見た目の魚が沢山あって、どれがどの種類だか判別できなかった。この少しの違いをどうやって見分ければいいのでしょう。魚は泳ぎ回り、一ヶ所に留まっていないから無理だ。

「あのお魚、とても小さいけど、他の大きなお魚に食べられたりしないのかな」
「しないから同じ水槽に入れられているのだと思いますが」
「そっかー」

共食いはだめだもんね、ともぐいは。と何かに納得している。彼女はなんだかすごくはしゃいでるみたいだ。喜んでいるみたいだ。面白い。何に納得してるんだか。こっちも無性に楽しくなってきて「そうですね、共食いはだめですね」って彼女と同じことを言ってみた。何が駄目なんだか。

「水族館にくるのなんてすごく久しぶりだよ!」

そうですか、久しぶりだからこんなに浮かれてるんですね。「しかも、バジルと一緒ですしね!」わくわくしちゃうね、と。 水族館は並盛、及びその周辺地域にはなくて、今回ちょっぴり遠出した。いつもデートは並盛か遠くても電車で3駅ぐらいの範囲内で済ませてしまう。2人ともどちらかというとまったり過ごすのがすきなのだ。

「きれい、」

ひときわ大きな魚が目の前を横切ったとき、ぽつりと落とすように彼女が呟いた。彼女の恍惚とした表情の方がよっぽど美しく魅力的だと思ったが、口には出さなかった。ゆらゆらと水が揺れていた。




ねぇ知ってた?

「ペンギンって銀髪が好きなんだって」

ペンギンの水槽の前まできたとき唐突に言い出した。この水槽の上からは本物の太陽の光が差し込んでいた。ここは地下で、この真上の地上では陸地を歩くペンギンを、ここでは水の中を泳ぐペンギンが見られるようになっているという造りだ。2人はペンギンを見ていた。陸地ではペタペタと危なっかしく歩くくせに水の中では頼もしいくらいだ。

「長い銀色の髪はペンギンには小魚の群れに見えるから寄ってくるらしいよ」
「へぇ。それは本当のことですか?」
「本当本当。嘘とか付いてないから、知ったかぶりでもないから!」
「では信じましょう」
「最初から信じてよ」
「冗談です。信じてますよ。殿は物知りですね」
「この間テレビで見たんだ」

えへへ、と少し照れたように笑った。「だからバジルも銀髪にしたらペンギンにもてもてになるよ、きっと」 どういうことですかそれは。 だって私バジルの髪きれいで大好きだもの。  拙者は殿に好かれていればそれでいい。もちろんそれは言わないけど。一匹(一羽?)のペンギンがすーっとこっちに近づいてきて、拙者たちに一瞥くれてからまたかなりのスピードで遠ざかっていった。ペンギンは陸地では頼りないくせに、水の中だと態度がでかくなるみたいだ。『お前らこんなに速く泳げるか?』と言ってるみたいだ。陸地でペタペタ歩く方がかわいげがあって好きだとかどうでもいいことを思った。ペンギンは水の中だと態度がでかくなるとか、そんなのただの妄想であるし。

「そういえばショーの時間は大丈夫ですか?楽しみにしていたようですが」
「んー、そろそろ行こっか?」

振り返った彼女の髪が揺れた。




結論から言えば結局ショーは見られなかった。 「レイナちゃんのショーやってないんだね」 彼女は会場の入り口に立てられた看板の前に立って"本日はイルカのショーはお休みです"とイルカのイラストからのびたふきだしをぼーっと見詰めていた。くりくりした目のキャラクター的なそのイルカの上にはご丁寧に"レイナちゃん"と説明書きまであった。ショーのメインであるイルカの名前はレイナちゃんというらしい。そんな説明なんてどうでも良いと思うのだけれど。そう思っていると彼女がくるりと振り返って今度は独り言でなく、きちんと拙者に向かって言った。

「イルカのショーお休みだって」
「残念ですが、仕方ありませんね」
「見たかったなぁ」
「また今度来ましょう」

言ってしまってからしまったと思った。「…うそつき」と彼女が咎めるような目でこちらを見ていた。いや、実際咎めていたのだ。にくんでいたのだ。うらんでいたのだ。そして睨んでいたのだと思う。心の中では。うそつき、確かに拙者は嘘吐きです。簡単に言葉を口にする。口は災いの元。

「バジルはイタリアに行っちゃうのに、一体いつ私をまた連れて来てくれるっていうの?」

もし、彼女をイタリアへ連れて行けたならどんなにいいかと思う。さらっていけたなら。多分そうすれば少なくともイルカのショーぐらいは見せてあげることはできたかもしれない。日本のこの水族館は無理でもイタリアの水族館でそれを見せてあげれたかもしれない。イルカだけじゃなく、アシカとかシャチとかのショーだって沢山見せてあげることだって可能だったかも。しかしそれには決定的に時間が足りなかった。

「…ごめん」

と彼女が小さく謝った。本当のことなのに。ただ、いつか2人でまた水族館に来たいと、心から思うよ。 拙者が殿を連れ去ってしまうのに、2年という歳月は短すぎた。拙者が今の世界を捨て彼女と生きるのには遅すぎた。2人とも恋のためにすべてを捨てる決意をするには若すぎた。それだけが悔やまれる。

「次、どこへ行こうか?あっちにいるのはクラゲかな?」

早く早く、と手招きして彼女が呼ぶ。その妙に明るい声で、ああやっぱり無理してたんだな、って気づいた。気づけよそんなこと、もっと早く。彼女は駆けていく。距離が開く。その距離を埋めたくて少しだけ早足であるいた。

「お土産屋さんだよ、バジル!」

ショーを見てイルカにめろめろになった客を狙っているのか、そこはイルカのグッズが沢山置かれた店だった。もちろんペンギンとかあのオレンジの縞々の魚(名前は忘れた)とか普通のかわいいお魚さんとかのもあった。「見ていきますか?」と聞くと「うん」と彼女は首を縦に振った。

「見て見て、レイナちゃんのキーホルダーがあるよ」
「本当だ」
「やっぱりかわいいね」

実物見てないから似てるかどうか分からないけど!と言って彼女は笑った。正直イルカの個体の違いなんて分からなくて多分全部同じに見えるのだろうけど「きっと似てますよ」と言った。そのキーホルダーは全国の水族館で売られてそうな品物だった。それと同時に世界でたったひとつしかないキーホルダーでもあった。「これ買おうかな」
その彼女の後ろの棚に大きなぬいぐるみが置いてあった。イルカのもあった。殿にそのぬいぐるみは似合うのではないだろうか?ほら、どことなく顔が似てる。(と言ったら怒るかな?) それとも殿はもうぬいぐるみなんか子どもっぽいと興味ないのだろうか?(多分、あると思うのだけれど)そのイルカを抱きしめる彼女が想像できた。
ねぇバジル、と彼女が呼んだ。その声が嫌いじゃない。

「ねぇバジル、私たちは大丈夫だよね」
「大丈夫に決まってます」

何の根拠もないけれど言い切った。

「私思ったんだけど、私たちは別れるときは別れるし、別れないときは別れないんだよね」

別れるか、別れない。たった、2択だ。2分の1に確率だ。半分だから決して悪くない。そして、どうやら彼女は拙者と別れる気はないらしい。嬉しいことに。拙者も殿を手放す気はない。だったら1分の1じゃないか。 積み重なる現実問題は考えないとして。

「多分それはバジルがイタリアにいようと日本にいようと変わらないことなんだよ、きっとさ。バジルがずっと日本にいたとしても私たちは別れるかもしれないもんね。1ヶ月後には別れてるかもしれないし1年続いてるかもしれないし、もしかしたら結婚までいっちゃうかも。でもそれはバジルがイタリアにいたって変わらないことだよね?」

日本にいたってもしかしたらいつか拙者は殿に飽きるかもしれない(今は絶対考えられないけれど)それと同時にイタリアにいたってずっと殿のことを想い続ける可能性だってあるのだ。寂しさに負けてしまうかもしれない。でもその程度の想いだったら日本にいたって同じだ。長くは続かないだろう。と思いたい。

「ただ私は距離には負けたくないなぁ」

彼女は顔を歪めて言った。泣く気はないらしい。心の中では大声で泣いているくせに。それでも一生懸命笑おうとするのだ。 最後のデートだしね、と思っているのかもしれない。いや、絶対思ってる。だから今日こんなにも楽しそうなのだ。本当は明日からのことを考えて大粒の涙を流しているくせに。 つよいひとだ。そんなところが、好きだ。いとしい。

「ね、バジル、まだ時間あるから次はクラゲを見よう?」

もし私が魚だったならいつでもあなたのところまで泳いで行けるのに、ってあの時彼女が呟いた。もしくは海に溶けてしまいたい。
 

永遠のアクアリウム