私は19歳の大学生です。このちょっとふるめのアパート、ひなた荘に住んでいます。ひなた荘という割りにそんなに日当たりが言い訳ではなく、そしてあまりきれいじゃないけれども私はこのアパートが気に入っている。まず第一に私の通う大学に近いし、家賃は安いし、大家さんは優しい。このアパートには全部で6つ部屋があって、1階に3部屋2階に3部屋、でも使われているのはそのうちの4部屋だけ。ちなみに私の部屋は2階の一番奥である。その下には田辺のおばちゃんが住んでいて、このおばちゃんがとてもいい人でよくカレーを「作りすぎちゃったから」と言って私にくれる。りんごとはちみつが入っているみたいですごくおいしい。私には作れないな、と思う。尊敬だ。そのおいしいカレーを私はいつも残さず食べて次の日の朝お皿を丁寧に洗って返す。いつもおいしいカレーをありがとう。 その田辺さんの部屋からひとつ空けて辻村さん親子が住んでいる。お父さんと中学生の息子の遼太郎くんの二人暮らし。辻村さんは明るくお喋りな人で「困ったことがあったら相談しなさい」と言ってくれる。遼太郎くんは中学生男子にありがちなように無口だが私に会うとぺこりとお辞儀してくれる良い子だ。休みの日は二人で出かけたりして仲良く暮らしているようだ。

そして最後、私の隣に住んでいるのがバジルさんだ。彼は3ヶ月ぐらい前に引っ越してきた、このアパートの中では一番の新入りさんだ。青い目がとてもきれいで礼儀正しくて優しくてそれでもってかっこいい。21歳らしいです。会社勤めをしているのかよく黒いスーツを着て出かけるところをみます。それなりに収入はあるはずなのに彼がなぜこのぼろいアパートに住んでいるのかは謎です。貯金をしたいのかもしれない。聞いたことがないので分からないけれども。彼は私と会うとにっこりと微笑みかけてくれます。初めて会ったときもそうでした。

そしてよくバジルさんは天気予報を見ない私が洗濯物を干して出かけようとすると「今日は夕方から雨が降るらしいですよ」と教えてくれるのだ。朝は清々しいほど晴れ渡っていたのに本当かなと思っていると、彼の言う通り夕方に雨が降り出します。バジルさんの予報は百発百中なのです。そう言うとかれは「予報で見たのをさんに伝えただけですよ」と笑う。「でもバジルさんから聞いた予報は絶対当たるんですよ。すごいです」と尚も言うと「ありがとうございます」と柔らかく微笑んでくれる。私はその彼の笑顔が大好きなのです。私はお返しにと言っちゃあ何だけれどもお母さんが送ってきたみかんやら何やらをバジルさんにお裾分けしたりする。私たちはそれなりに、仲良しなのです。


その日私はアパートに帰ってきたとき、これから出かけるらしいバジルさんと鉢合わせした。

「こんにちはさん」
「バジルさんこんにちは」

彼は部屋に鍵をかけて、私はバックから鍵を取り出して開けた。部屋はオレンジで染まっていた。ひなた荘は日当たりが悪いのだけれどなぜだか私の部屋だけは強い西日が差す。夕方は眩しい。  眩しさに目を細めながら私は部屋に入ってそのままバタンと倒れこんだ。今日はつかれたなぁ。そしてオンボロテレビの電源をつける。特に見たいものがあったわけではなく、まだドラマの再放送やってるかなぁ、ぐらいの気分で。付けるとたまたま夕方のニュースがやっていた。天気予報のお姉さんがにこやかな笑顔で『はーい』と言った。丁度スタジオから入れ替わったとこらしかった。『今日も一段と冷え込みましたね。しかしこの冷え込みはまだ数日続く予報です。風邪などを引かぬよう体調管理には十分な注意が必要です』などと不吉なことを言う。そうか、このだるさは風邪のそれかもしれないと思い当たった。

『今夜はこれから明け方にかけて雨が降り出すでしょう』

いやだなぁ。ただでさえ寒いのにそのうえ雨まで降り出すなんてたまったもんじゃないなぁと思っていたら、隣の部屋から音が聞こえた。ガタガタバタンバタン。バジルさん?帰ってきたのかしら、忘れ物?なら丁度いい。余計なお節介かもしれないけれど「これから夜にかけて雨が降るらしいので傘を持って出たほうがいいですよ」と教えてあげよう。そうしよう。バジルさんバジルさん。彼までも風邪を引いてしまったら困る。体はだるかったけど暇だった私はその考えに夢中になった。すぐに隣の部屋の扉の前に立った。

「バジルさん?いらっしゃいますか」

コンコン。中の音が止んだ。全く音がしない。返事は返ってこない。ドアノブに手をかける。鍵が開いている。ノブをひねってしまった。扉が開く。そこには物が四方八方に散乱しひどく荒らされた部屋と、その真ん中に知らない男の人がいた。誰?ただそれだけなら私はその男がバジルさんの友達だと言われたら信じたかもしれない、まだ。でもそれを否定する決定的なものが男の手に握られていた。黒い物。黒い拳銃。その口が私に向いている。一瞬理解できなくて私は止まった。なに、なになになに?頭では全く理解できていないのにも関わらず口からは勝手に音が漏れていた。幸せな気分なんて最初から存在しなかったみたいに消し飛んだ。全部最初からうそだった。

「きゃああああああああああああああああああ」

泥棒?泥棒泥棒。侵入者。あの不吉な男の手に握られているのは?拳銃。本物?黒い。黒く黒く光っている。この平然とした部屋はぐちゃぐちゃでただその黒が光っている。怖い怖い怖いこわい。ころされる?その黒い真っ黒な拳銃で撃たれてころされて。

「やあああああああああ」
さん!」

バジルさんだ。蒼白な顔で階段を駆け上がってくる。カンカンカンカン、と薄ぺっらい音で階段が響く。その音を聞いて男もハッと我に返ったかのように拳銃を床にごとりと落とした。

さん大丈夫ですか?」

そう言って彼は私を抱きしめる。庇うように。そうして部屋を見る。男は窓を開けて飛び降りる。ドサって音のあと、走る音が聞こえた。ここは2階だったけれども無事着地したらしい。部屋の真ん中には相変わらず黒が横たわっている。悲鳴は相変わらず私の喉から漏れる。

「落ち着いてください。もう大丈夫ですから」

バジルさんバジルさんバジルさんバジルさん、全然大丈夫なんかじゃないのよ。黒い奥の見えない穴が私に向いてるの。それを持つ人、引き金を引く人はいないけれど、それ自身が意思を持って私を撃ち抜くかもしれないわ。こわいこわいこわいこわい、 大丈夫ですよ。彼はもう一度言って私の頭を引き寄せた。

「大丈夫ですから、ね?」

私がそのまま床にぺたりと座り込むと彼は名残惜しそうに私の頭をもうひとなでして、つかつかと部屋に入っていった。部屋の真ん中に転がったその銃を拾い上げ、そっと引き出しにしまった。

「バジルさん、こわいです」

その銃がこわいのです。バジルさんはこわくありません。でもその銃はこわいです。

さん、帰りましょう」

私のおうちはここの隣だったけれども彼は送っていくと言った。私がふらふらと危なっかしかったせいかもしれない。安心できる彼の胸にしがみつきながら私は黙って付いていった。私のおうちには1分とかからずついた。なにせ隣の部屋、扉を開けて5歩進んでそれでおしまい。少なくともまだこの時は雨はまだ降り出していなかった。  彼は私を座らせて、「冷蔵庫開けますよ」と断ったあとで中からペットボトルを取り出して私に差し出した。それは500mlのペットボトルの紅茶で、昨日私が飲み残して冷蔵庫にしまっておいたものだ。半分ほど残っている。私はそれを両手でしっかり持って飲んだ。紅茶が擦れた喉に沁みた。

「落ち着きましたか?」

小さく頷くと彼は私の頭に手を置いて「恐ろしい思いをさせてしまってすみません」と謝った。あなたのせいじゃないのに。何と言っていいか分からなかったから代わりに「あの男は泥棒?」と分かりきったことを聞いた。「多分、そうでしょう。彼はただの善良な泥棒です」彼は答えた。善良な泥棒だなんて変な言い方、矛盾している。

「ただ金が欲しかったただの善良で無害な泥棒です」

一般の泥棒に入られるとは迂闊でした。ここはうまい隠れ家になるとおもったのですが。少しこの場にそぐわない良い生活をしすぎたのでしょうか?だから金があると彼に目をつけられてしまったのでしょうか?困ったものです。

ねぇ さん、 彼はひどく甘く響く声で言った。

「これはあの男のものではありません」

では誰の? 声が震えていたかもしれない。声が擦れていたかもしれない。そう尋ねると彼は自分の人差し指を自分の心臓に持っていった。自分自身を指差した。それは冗談などではない、真剣な表情、仕草だった。

「…バジルさんの?」
「そうです」
「本物?」
「本物です」
「あなたが使うの?」
「使います」
「撃つの?」
「撃ちますね」
「それでヒトを、ころすの?」
「殺します、」

幻滅しましたか?と彼が聞く。私は肯定も否定もせずそれがしまわれた引き出しを見つめて黙っていた。それを彼がどういう意味にとったのか私には分からない。ただ彼に『幻滅』したかどうかは今私にとって問題ではない。罪を憎んで人を憎まずの如く、銃を憎んで彼を憎まずだ。うん、やっぱり幻滅なんてしてない。バジルさんはバジルさんでこれからもバジルさんであり、そのバジルさんはあの銃口を私に向けたりはしないのだ。それだけは分かっている。けれども私はまたあの真っ黒い穴を思い出して身震いした。 冗談だったら良かったのに。今私はどんな顔をしているのでしょう。彼は相変わらず笑顔を崩さず言った。

「明日ここを引き取ります。もうあなたを危険にさらすこともないでしょう」

あなたはもう銃口を向けられることなく、何かに恐れ怯えることなく平和な生活を送れる。人間は忘れる生き物です、今日のことだって、こんな嫌な記憶忘れられないと思っても、忘れてしまいます。忘れてそれから幸せな日々を送るでしょう。  

「バジルさん行かないでください。ここにいて、お願い」
「それはできません。無理な頼みです」
「お願いです。今夜だけでもいいから私の隣にいてください」
「できませんよ」

そう言って彼は私の頭を撫でて、立ち上がった。  いかないでいかないでいかないで。

「今夜はまだ隣の部屋にいますから」

二度扉が開き閉まる音がして、私はひとりになった。バジルさんバジルさん。私の隣人。青い目がとてもきれいで礼儀正しくて優しい笑顔で私の頭を撫でる人。こんな形で終わらせたくないのです。ひなた荘という幸せで包まれているようなあたたかい名前のアパートで実際幸せな人間などただひとりとして存在しなかった。全てにせものだった。

「バジルさん」

彼の名を呼んで、壁に体をぴったりとくっつけて、呼ぶ。トントンと壁を叩いてみたりもする。バジルさん、バジルさん聞こえていますか?ひなた荘の薄い壁だから、狭い部屋に響いているはずだ。 コンコンと向こう側から合図が返ってきた。私はよりいっそう壁に張り付く。この壁の向こうに彼がいるのだ。とてもとても薄い壁のはずなのに私にとってはとてもとても厚い壁のように感じた。こんな壁などいらないのに。壁なんか。 壁なんてあるもんか。あったとしてもそんなもの消えてしまえばいいのに