風邪を、引きました。
風邪なんて久しぶりに引きました。ずいぶんと長く忘れていたこの感覚。このだるさ。このあつさ。かっこ悪いことに熱まで出してしまいました。これでは殿に会いに行くこともできません。何もすることがありません。はっきり言って暇です。だったら尚のこと早く寝て治せ!って感じですが。午前いっぱい寝てすごしたので、もうすでに寝ることにも飽きてしまいました。ひどく暇です。
と、バタンと勢いよく部屋の扉が開いて、誰かと頭を上げる前に聞きなれた声が降ってきた。

「バジル、大丈夫?!」

ノックもなしに入ってこないでくださいよ、殿。こ、心の準備が…!インターフォンの音、しましたっけ?まどろんでいたから分からない。びっくりして口も開けぬ間に彼女は拙者の横たわるベッドの脇に膝を付き覗き込んできた。

「あのね、風邪引いたって聞いたからお見舞いに来たの。熱、大丈夫?」

彼女はおもむろに手を伸ばして、ひんやりとした冷たく小さな手を拙者の額に当てた。…顔が、少し近いです、殿。「ちょっと、熱いなぁ。だめだよ、バジルはいつも無茶ばかりするから」殿に言われたくありません。おぬしこそ、拙者が少し目を離すと危なっかしいことばかりするくせに。

「食欲は、ある?色々買ってきたんだけど、」

そう言って彼女は手に持っていたビニール袋をごそごそいわせて中身を取り出しては並べ始めた。「ポカリでしょ、ひえぴたでしょ、お薬でしょ、ポカリでしょ…」わざわざ拙者のために買ってきてくれたのでしょうか。ポカリとかそんなに沢山、重かったでしょうに。走って買いに行ってくれたのでしょうか。疲れただろうに。

「あ、林檎も買ってきたんだよ!林檎好き?」

小さく頷くと彼女は「よかった!」と笑った。「じゃあ剥いてくるからちょっと待っててね」と来たときと同じようにあっという間に出て行ってしまった。部屋の中が急に静かになって、寂しくなる。寂しい、当たり前でしょう。おぬしがいないとつまらない。でも、今日は早く帰ってもらわないと。彼女に風邪をうつしでもしたら、大変だ。彼女がいたんじゃ、おちおち眠ることすらできない。彼女の顔を見ているとキスしたい、とかそんなことを思ってしまう。熱で頭がぼーっとしてうまく働かない。理性が、利かないかも。やっぱり早めに帰ってもらわないと。その彼女は今キッチンで林檎を剥いているのでしょうか。上手に剥けるのだろうか、とか余計なことを考えた。たぶん、今頃丁寧に丁寧に剥いているのだろうなぁ。その姿を見れないのは少し残念なことだけれども。カーペットの上にきれいに並べられたポカリやらひえぴたやら薬の箱やらを見ながら取り留めのないことを考えていた。そんな間に、早いことに、彼女が近づいてくる足音が聞こえた。ガチャリとドアノブをひねる音がする。

「お待たせ!」

と、彼女が持った皿の上にはきれいに、うさぎさんが並んでいた。なんてかわいらしいのでしょう!うさぎさんの形になった林檎に感動した。かわいいうさぎの林檎を持っている殿も愛らしかった。きっと、将来殿はいいお嫁さんになることでしょう。
「うさぎさんですね、」と拙者が言うと「うさぎさんです」と彼女は微笑んだ。

「食べますか?」
「ええ、いただきます」

しかし「はい、あーん」と殿がフォークに刺さった林檎を口元へ運んできたので焦った。殿、さすがにそれは…!(恥ずかしいですよ、)(誰も見てやいませんが!)

殿…!自分で、食べられますから、」
「あ。ごめん、そうだよね!」

殿は恥ずかしそうに少し、頬を染めた。自分の熱も、少し上がったみたいだ。熱い体を起こしてフォークに刺さった林檎を受け取る。シャクリと甘くみずみずしい欠片が口の中に転がり落ちてきた。おいしいです。しゃりしゃり。うさぎさんの耳の音がします。しゃりしゃり。その間彼女はずっと俯いていた。耳が赤かった。このうさぎさんと同じ色ですね。「バジル、」と彼女が小さく拙者の名前を呼びました。拙者は聞こえないふりをしました。体が熱いだるい熱い。林檎一切れ全て口の中へ放り込んでからポフと体を倒した。ひどくあついです、殿。やけてしまいそうです。

「私、そろそろ、帰ろうかな。私がいるとうるさくて、バジル寝れないだろうし」

押し黙っていた彼女がそう言って立ち上がった。え、もう帰ってしまわれるのですか。おぬしのことだから「バジルがよくなるまで看病する!」とか言い出しそうなものなのに(それは思い上がりですか、そうですね)。名残惜しいと思ってしまった。殿に風邪をうつしてしまうかもしれないのに。彼女の迷惑になってしまうのに。それでも、思わず手を掴んだ。掴んでしまった。

殿、行かないでください」

我が侭だ、と分かっているのに。彼女を困らせるだけだと分かっているのに。切に願った。彼女がいなくなってしまったら、拙者はこのまま死んでしまうのではないかと思った(病気は気を弱くするって本当ですね)。いかないでください。これは我が侭です。分かっています。ちいさな子どもが駄々をこねるみたいな。
それでも彼女がその掌で伸ばした手をやさしくそっと包み込むので。
 

幼い熱を閉じ込める

再び目を開けたとき、傍らで彼女が心地良さそうに眠っていたので思わず額に口付けてしまった(閉じ込めきれず溢れ出した熱が、)