あの日、キーンと気持ちの良い音がして青い空に白球が綺麗な放物線を描いて飛んでいく光景を見た瞬間、私は何かに心を奪われてしまったみたいだった。

「すっごいよく飛ぶなぁ…」

それからしばらく眺めているといつも同じ人の番になるとキーンと気持ち良い音がすることに気が付いたのだ。「田島すげー!」と周りから声がしたから気が付いた。ああ、あれは同じクラスの田島くんだったんだって。

*

あれ以来私は学校を探検するのがちょっとした趣味になっていた。屋上は当然お気に入りの場所だったけれど、他にも居心地の良い場所はありそうだなーと思って放課後ぶらぶらすることが多かった。帰りのホームルームが終わったあとすぐ帰宅するのはもったいないような気がしてわざわざ学校の敷地内をぐるっと回って帰ったり、周辺を探検してみたり、わざわざ細い路地を通って家を帰ってみたり。探検というほどのものでもないかもしれない。ただの散歩。ただの時間潰しと言っても良かった。家に帰ってもドラマの再放送を見るぐらいしか予定がない。何にせよ時間だけは有り余っていたのだ。

「ここが第二グラウンドかー」

適当に歩いていたら第二グラウンドに辿り着いたようだった。部活にも入っていない運動とは縁遠い私は初めて第二グラウンドなんてものを見た。随分離れたところにあるんだなぁ、と思いながらチラチラそちらの様子を窺う。野球部の掛け声が聞こえる。ボールがバットに当たる音も混ざって聞こえてくる。今日は何の練習しているんだろう。この間は練習試合とかだったのかなぁ。

田島くんも練習してるのかな。

少しずつグラウンドの方へ近づいて歩いていく。田島くんは野球部なんだから練習してるの当たり前なのに、そんなことを思いながら人影を追っていく。あの人影の中のどれが田島くんだろう、って。この位置からだと顔までは確認出来ない。さすがにグラウンドの中に入ることは出来ないから、私はゆっくりゆっくり歩きながら背の高さからしてあれが田島くんかなぁとか動きが元気なあれかなぁとか考える。

するとつま先にこつんと何かが当たった。視線を下げるとそれは土で汚れたボールだった。思わず拾い上げる。これって野球部に届けに行った方がいいのかなぁなんて悩んでいると人が走って近づいてくる気配がした。ああ、取りに来た人がいたんだ。あわよくば近くで野球している姿を見ようという図々しい考えを吹っ飛ばす。

「すみまっせーん!ボール取ってー!」
「取ってー、じゃねーよ、自分で取り行け田島」

ドキっと心臓が跳ねた。田島くん。先日ガンガン球を飛ばしていた野球少年ではないか。私が今まさに考えていた人。そしてその後ろにいるのはクラスメイトの泉くんではないか。驚きながらも平静を装って彼らに向き合う。

「はい、どうぞ。部活お疲れさま、田島くん」
「えー、何で俺の名前知ってんの?!」

クラス一緒なのになぁ、と私は内心苦笑する。でもそんなもんかなぁとも思う。まだ文化祭とか体育祭とか球技大会とかクラスが団結する行事がひとつもないし、いくらホームルームの時間にクラス全員自己紹介したとはいえ、それだけでクラスメイト全員の顔と名前を一致させるのは難しいことかもしれない。現に私だってクラスの男子の名前全てを覚えているかと聞かれればは少しあやしいところがある。女の子だったらすぐに覚えられたけど。私がそんななんだから、田島くんが一度も会話したことない女子を覚えてるとは思えないよなぁ、なんて少し失礼なことを思ったりもした。曖昧に笑っていると泉くんが田島くんを小突いた。

「同じクラスだろ」
「マジで?ごめんな!」

泉くんに指摘されて田島くんは前半は泉くんに対して、後半は私に向けて言った。おお、泉くんは私のこと知ってたんだ。名前まで知っているかは分からないけれど、認識はしていてくれたんだ。記憶力良さそうだもんな。そんなことを考えていたら田島くんが「泉、頭いーな!」と言った。

「そっかー、同じクラスだったかぁ。んじゃ、これからよろしくだな!」

そう言って田島くんは笑った。眩しい笑顔だった。真正面から向けられた笑顔に私は驚いて、ドキドキと心臓が鳴るのが分かった。

「おい、そろそろ戻らねーとモモカンに怒られっぞ」
「うお!そうだな」
「あ、ごめんね、話し込んじゃって」
「いや、ボール拾ってくれてアリガトウゴザイマシタ」
「ホントありがとなー!」

泉くんは野球少年らしく礼儀正しく軽く頭を下げ、田島くんは無邪気な笑顔を私に向けて礼を言う。大したことしてないのに、こうして改めてお礼を言われると少し気恥ずかしい。

「いやいや、どういたしまして。練習頑張ってね」

当たり障りのないことを言ってバイバイの意味を込めて手を振る。田島くんと泉くんは踵を返してグラウンドへ戻って行く。ああ、行っちゃう。何故だかそのときの私は焦燥感に駆られた。田島くんは同じクラスで喋ろうと思えばいつでも話せるのに。明日の朝にでも声を掛ければいい。今日の明日ならきっかけとしてそれほど不自然じゃない。けれども、

「あ、の!田島くん!」

私は後ろ姿に声を掛けていた。練習に向かう田島くんを呼び止めてどうしようというのだろう。私は何を言うつもりなのか。分からないまま、田島くんがくるりと振り向いたので私は慌てて言葉を組み立てる。

「この間沢山打ってたよね。私、見たんだ。すごかった」

まるで片言の英語のような文法だ。短いパッセージを並べた台詞。よく意味が分からない言葉だ。でもそれが私の精一杯だった。それと同時に頭の中でこんなことを言ってどうすると聞く声がする。田島くんにそれを伝えてどうする、と。でも、どうしても言いたくて仕方なかったのだ。変に思われたかなと田島くんの様子を窺うと、彼は一瞬驚いたように目をまん丸に瞠って、

「…へへ、さんきゅー」

それから、照れたように笑った。あ、この顔は初めて見る。初めても何も、田島くんとこうして面と向かって喋ったのは今日が初めてで、知らない顔が沢山あって当然なのに。それでもころころと表情の変わる田島くんがこの短い間に見せた多くの笑顔のどれとも違う、教室でも見たことのないこの笑顔はトクベツのような気がした。笑顔にはこんなに沢山種類があったんだって田島くんを見ていると気付かされる。

私がボーっとしている間に田島くんはもうとっくにグラウンドに、練習に戻ってしまっていた。掛け声の中に田島くんのものが混じる。さっきまでは分からなかったのに、今は田島くんの声がくっきりと浮かび上がって聞こえるようだった。

田島くんの色んな顔を見てみたくて、つい目で追ってしまう。もしかしたら彼がいるかもと思ってしまうと気になる。話していると何故だかドキドキして、それでも心はぽかぽかして心地良い。ああ、これはきっと。
 

この気持ちはきっと

「すき」でした

私は元気の良い掛け声を聞きながら今度は家に向かって歩き出した。


若葉ちゃん宅・葉緑体の10万打コラボ企画で「特等席を君に」のヒロインをお借りして書かせていただきました。改めまして、10万打おめでとうございました!...09/12/30 か子