ちょうど飲み物を買いに行こうと思っていたときだった。背中の方から「いっずみ、誕生日おめでとー!」という声が聞こえてきた。思わず振り向くと教室で田島くんが泉くんの背中をバシバシ叩きながら笑っていた。泉くんは皆に囲まれている。彼が「いてぇよ!」と口を開くのが見えた。でも、声は全然怒ってない。どことなく嬉しそう。そうだよね、誕生日だもんね。彼と仲の良い田島くん三橋くん浜田くんが中心になって祝いだしたのだろうけど、もうすでに彼の周りには他にも何人か話を聞きつけたクラスメイトが取り囲み始めている。

「あー、泉くん今日が誕生日なんだ」

私はその教室の前で立ち止まって、なんてことを思った。実際小さな声で呟いた。けれどもその声は誰にも聞こえることなく廊下の雑音の中に紛れてしまった。視線は何となく彼の方を向いたまま、固定されて動けない。金縛りにあってしまったみたい。まるで月が地球の重力にひっぱられるみたいに、私は彼にひかれている。視界はあちらを向いたりこちらを向いたり忙しい彼の姿を捉えている。浜田くんがちょいちょいと泉くんの肩を叩く。皆仲良さそうだな、そこに私もいけたらいいのに

「おーい、泉どした?」

田島くんがそう言った瞬間、泉くんと目があった。思わず、反射的にそらしてしまって後悔した。今のは感じ悪かったんじゃないか?何かプレゼントしてあげたかった、と思ってしまった。私は泉くんとそんなに仲良くないし、彼の誕生日だって今知ったくらいで、当然プレゼントなんて何も用意していない。知っていたとしても、きっとプレゼントなんてあげられないだろう。今の距離では。ただ、例えばお菓子とか、そういう手軽なものだったらあげれたかもしれない、と後悔した。手作りじゃなくて、もちろん市販のだけれども。

ポケットを探ると飴玉がひとつだけ入っていた。これを、あげたらどうだろうか。こんな飴玉ひとつでは誕生日プレゼントとは言えないけれども、泉くんに話しかけるきっかけぐらいにはなるんじゃないだろうか。話しかけてもいいかな?おめでとうと言うくらいは許されるだろうか。泉くんが別の方向を向いてしまう直前に私は一歩踏み出すことが出来た。

「泉くん、」

ドキッとする。この名前を呼ぶ度に私の心臓は跳ねる。いつになったら慣れるのだろう。もっと近づけば慣れるだろうか。もっといっぱい呼べば慣れるだろうか。いや、もしかしたら一生慣れないかもしれない。

「ん、?」

名前を呼ばれる度にだってドキッとする。慣れない。

「今日、誕生日なの?」
「ああ」

駆け寄りながら分かっていることを尋ねると、短い返事だったけれど、笑顔で返してくれた。やっぱり誕生日だから機嫌がいいのだろうか。心臓たちが飛び跳ねる。

「今知ったから何にもプレゼントないけれど、」
「気遣わなくていいよ」

田島たちだって騒いでるけど、こいつらだって大したプレゼント用意してるわけじゃねーし、と彼は言う。見ると、机の上にはポッキーとかポテチが少し乗っていて、それを田島くんと三橋くんを筆頭にクラスの子も便乗して食べている。泉くんの誕生日なのに泉くんは全然食べれないまま、私と喋ってる間になくなっちゃいそうな勢いだ。

「ポッケに飴ひとつあったからあげるね」

この言葉ひとつ絞り出すのに、ずいぶんエネルギーを使ってしまったような気がする。泉くんの手のひらにコロンと飴玉を落とす。泉くんの手のひらの上の飴玉は、私の手の中にあるときよりもまたずいぶん小さく見えた。飴も緊張しているのかな。

「…さんきゅー」

それだけで、勇気を出して良かったと思った。大したことないけれど、泉くんの誕生日に彼と話せた、何かをあげた、という事実だけで私は満足だ。うれしい。

「オレこの飴好き。うまいよな」
「ほんと?よかった」

何気ない会話で、他人から見たら何ともない日常会話だと思う。だけど、私にとっては特別すぎた。たまたま泉くんが気に入っている飴をあげれたってだけで、それを持っていた自分を褒めたくなる。

「いずみー、ポッキー最後の一本食い終わっちゃった!」
「てめ、それオレの誕生日プレゼントじゃなかったのかよ!」

そう言って彼が田島くんの方へ向き直ったのをきっかけに私は一歩下がった。もう、会話は終わりだろう。そういえば飲み物、買いに行く途中だったんだ。休み時間が終わる前に行かないと。泉くんと少しでも喋れてよかった。後ろの方からはまだ田島くんと泉くんが何か言い合っている声が微かに聞こえる。

「あれ、泉何持ってんだ?」
「これはぜってぇやんねー!」

私は廊下を軽やかに駆け抜ける。
 

手のひらの飴玉

ほんのすこしのしあわせ