その日は普段と何も変わらない朝だった。目が覚めると携帯に一通メールが来ていた。私が寝てしまった夜中に届いたみたいだった。開いて、差出人を見た瞬間、今日一日がいい日になる予感がした。それが孝介からのメールだったから。本文を読んでそれはほとんど確信になった。
今日話したいことあるから行く
簡潔な文章。一体何の話だろう。貸した漫画いい加減返せ、とかだろうか。もしかしたらCDかも。あ、ゲームも借りてたな。孝介が面白いって言うから借りたけど、全然進まなくて、ちょっとやっただけで机の上に放っぽってある。 きっとこのうちのどれかを返せって言われるだけなんだろうけど、私は孝介からメールが来たってだけで浮かれていた。孝介に会えるってだけで嬉しかった。
当然その日一日そのことばかり考えてしまって、他のことに手がつかなかった。孝介も何の話かぐらいは言ってくれたって良かったのに。返信するとき聞いておけば良かったと少し後悔した。話したいことをメールで聞いてしまったら会ってくれないような気がして、聞かなかった。夜、孝介が帰ってきたら聞けるんだからと思った。一日なんてすぐだって。だけれど、待っている時間は長かった。
やっと放課後を告げるチャイムがなっても私は憂鬱なままだった。まだ、孝介が部活終わるまでまだまだ時間がある。孝介は部活終わるの何時って言っていたっけ?終わってから家に帰ってくるまでさらにだいたい40分ぐらいかかる。孝介とは家がお隣さんだから、会おうと思えばいつでも会えるのに、少しでも早く孝介に会いたくて仕方なかった。たまにメールもらえたら、浮かれあがってしまうのは仕方ないよね。
だから、西浦まで行ってみようかな、という気になったのだ。
一度思いついてみるとそれはとてもいい考えのように思えた。今日は予定もないから、少し寄り道して、西浦まで行ったら少しだけだけれど孝介に早く会える。帰り道に話せるから、孝介も寝る時間遅くならないんじゃないか。いいことだらけだ、と。
そういうわけで、私はうきうきした気分で西浦の校門の前で孝介を待っていた。孝介とゆっくり話す機会はいつぶりだろう。姿を見るだけのことはあっても会話をするのは久しぶりのような気がした。中学までは毎日顔をつき合わせていたから、特に。学校が違うと以前よりずっと話す機会が減ってしまったから。
待っていると、向こうから人の話し声が聞こえてきた。またどこかの部活が終わったようだ。ひとつ、聞きなれた声が近づいてくる。孝介の、声だ。声を掛けようとしたけれど、次の会話を聞いて私は止まってしまった。
「いーなー、オレも彼女ほしー」 「水谷うっせー」 「泉は彼女いるからそーゆーこと言えるんだよ!」 「まぁな」 「くっそー、ラブラブうらやましい!」 反射的に陰に隠れた。…、孝介って彼女いるの?うそうそうそ、そんな話聞いてない!泉のおばさんもお兄ちゃんも何にも言っていなかったのに。私の知らない間に出来たのだろうか。ここ2,3日の間に出来て私が知らなかっただけとか。この間泉家にお邪魔したときおばさんもお兄ちゃんも何も言っていなかったのに。おばさんならこんな面白そうなこと見逃さない、とばかりに私に嬉々として話してくるだろうに。あるいは孝介が隠していたとか。あの2人に話したら絶対からかうだろう。それを嫌がった可能性はある。
「泉くん!」
孝介の背後から声がして、孝介が振り返る。暗いし、私まで距離があるから顔まではよく見えない。けど、かわいらしい女の子だってことは分かった。孝介が足を止めると「おーい、いずみー、先行ってるからなー!」と孝介だけ残して他の人たちはそのままこちらへ向かってきた。私は思わず物陰に隠れた。別にやましい気持ちがあったわけじゃない。惨めな姿を人に見られたくないとか、そういう計算があったわけでもない。ただ、反射的に。
「本当泉ってあの子のこと好きだよなー」 「田島、泉の彼女見たことあんの?」 「前に泉とふたりで歩いてんの見た!」
ガヤガヤ話しながら野球部の集団は私に気付くことなく横を通り過ぎていった。もうデートしてるのか。それとも学校ではふたりはかなり仲良いのかな。あの硬派気取りの孝介が女の子と楽しそうにお喋りって、それだけで完全に孝介がその子に気があること分かるじゃないか。
ひんやりとした心が道に落ちた。
別に初恋じゃない。私の初恋はなんと泉家のお兄ちゃんの方で、ずっと好きだと思っていたけれど、それは憧れだった。そう気付いたのもずっと昔のこと。その後何度か失恋だって経験した。その度に私は鈍い痛みを覚えながらも、ちゃんと前に進んでこれたのに。どうしてだろう、もうこれ以上は一歩も歩けない気がする。気がするのに、私はちゃんと、しかも早足で歩けている。足は一刻も早くここから離れたいみたいに。街灯が暗い道を照らしているのを見ると、また妙に目に染みた。その道を歩いていく。本当は駆け出したかったけれど、最寄り駅までまだ大分距離がある。こんな風にひとり歩いて帰るのって少し惨めだなぁと考えていると、ふいに肩を掴まれた。
「…!?」
最悪だ。その声は紛れもなく幼馴染のもので。聞き間違えるはずもない。肩を掴まれて、振り向かされて、顔を見られてしまった。どっちにしろ、他校の制服を着ている私はきっとすぐに孝介に見つけられてしまったのだろう。こんなことなら一度家に帰って着替えてくればよかった。街になじむような、夜になじむような格好をしてくればよかった。いや、最初から西浦まで孝介を迎えに行こうなんて思わなければよかったのだ。孝介は私の肩に手を置いたまま目を見開いて「…どうした?」と聞いた。風で乾いた目を瞬かせて「何でもない」とだけ答えた。
「つーか、お前こんなところで何やってんだよ」 「学校帰りだよ」 「嘘吐くな。この道通らないだろ」 「ちょっと遠回りしようと思って」
ちょっとこの言い訳は苦しすぎたかもしれない。こんな家からも、駅からも遠いところで遠回りも何もありゃしない。孝介だってとっくに答えは分かっているはずだ。私が西浦に、つまり孝介に会いに来たってことぐらいは。その上で彼が聞いているのは、どうして自分に会わずに帰ろうとしていることだろう。もしくはどうして西浦までわざわざ会いに来たか。そのどっちだと聞いているのだ。
「こんな遅い時間に出歩くなよ」 「いいじゃん別に」 「…お前、何かあったのか?」
そう尋ねられて心臓がドキリと跳ねる。泣き顔を見られているのだから、いくら気丈にしていたって、孝介がそう考えるのも当然のことなのに、私の心臓はドキドキといつもより速い速度で脈打つ。その目で見つめられると全部見透かされてしまうんじゃないかって思う。
「学校でなんかあった?」 「…」 「友達と喧嘩した?いじめられたとか?」 「…」 「おい、何とか言えよ」 「何でもないってば」 「もしかして、失恋?」 「孝介には関係ないじゃん」
本当は関係あるんだけどね。図星を指されて私の心臓は密かに跳ねる。もしかして孝介は私が想いを寄せていること気付いててわざとそんなことを言ったんじゃないかと思ったから。
「なんでそういうことになるの?!」 「だって、この間兄貴がお前に好きな奴いるって言ってたから」 「ちょ、本人がいないところで何話してんのよ」
なんで、そういうこと話しちゃうのよ。幸い、相手が誰かということまでは言っていないみたいだけれども。もう今後彼に相談するのはやめよう、と心に誓う。
「誰だよ、そいつ…」
肩に乗せられたままだった彼の手に力が込められる。車が脇を通り、ヘッドライトが孝介の顔を照らす。暗がりで良く見えなかった彼の顔は、今切なそうな顔をしていた。何かを堪えているような表情。でも、その表情もすぐに変わった。孝介が苛々しているときの表情に。私は見慣れたその表情に安堵するとともに、困惑した。どうしてここで孝介が怒るの?
「どうせまたろくでもないやつだろ」 「何その言い方」
その言い方にカチンと来た。相手が誰かも知らないくせに。孝介はいつもこうやって勝手なことばかり言うんだ。本当に、何も知らないくせに、
「だいたい、小さい頃いつもお前をいじめっ子から守ってやってたのにお前は兄貴ばっかり…」 「こ、孝介だって私にいじわるしてたじゃん」 「んでもってやっと兄貴を諦めたかと思えば今度はどこがいいんだか分からない男に惚れてやがるし」 「ちょっと、何それ」 「お前はあいつの『野球がうまいとこがいいー』とか言ってたけど、あいつよりオレの方が絶対野球うまいっつの!」 「そ、そんなの分かんないでしょ…!」 「いーや、絶対オレのがうまかったね」
どうして、そんなこと言われなきゃならないの?
「私が、誰を好きになろうと孝介には関係ないでしょ…!」 「大有りだっつの!」
そこでふいに孝介が必死な声を出すものだから、私は言葉を飲み込んでしまった。
「大有りだ」
彼は、今度は静かに言った。言葉が、星空に吸い込まれていくようだった。そのまま少し乱暴に私の手を取って、ずんずんと歩き出す。私はそれに引っ張られるようについていって。孝介は昔もよくこうやって私の手を引っ張っていった。あのときは孝介が怒っていると思って何もいえなかったけれど。今日孝介が言おうとしていたこと、今聞いてもいいかな?ねぇ、それってどういう意味?
ゆびさき対話
帰り道結局お互い何も喋らなかったけれど、冷たい指が少しずつあたたかくなって。
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