「好きです」
ひどく真剣な瞳でこちらを見つめる彼が言葉を紡ぐ。
それを聞いた瞬間、私はぶわっと自分の顔が熱くなるのを自覚した。手に持っていた花が指先からするりと抜けて、地面に広がった。
気分転換に裏の山に散歩に出掛けにきていただけだった。幸村さんはきっとそんな私のお守役として同行してくれたのだと思っていた。ただ必要があるからついてきてくれただけだと思っていた。その証拠に部屋を飾る花を摘み始めた私をただ見守るばかりで、彼自身は特に何をするでもなかったのだ。それなのに、綺麗な花を摘めたと満足する私に近づいてきたかと思うと、突然彼は先の言葉を口にしたのだった。
「あの、その……」
意味をなさない言葉ばかりが漏れる。
きっとこれは夢に違いない。こんな都合の良い夢を見るだなんて、願望丸出しで恥ずかしい。
でも、夢の内容なんて誰に知られるものでもないのだから少しくらい良い思いをしたって良いのでは。そう思ったけれど、一言でも喋ったらこのしあわせな夢から覚めてしまいそうで、怖かった。
「殿」
彼が私の名前を呼んで、一歩こちらへ近付く。
午後の穏やかな日差しが降り注ぎ、風が木の葉を揺らす。そのさわさわと小さく鳴る音ですらひどく遠くに聞こえた。
すっと彼の手がこちらへ伸びてくる。
「ごめんなさい!」
触れてしまったらきっとこの夢は崩れてしまう。そんな風に思えて、私はその場から逃げ出した。
夢だからきっとどこまでも逃げられると思ったのに、走っているとそのうち息が切れた。呼吸が苦しくて、これ以上走っていられなくなる。後ろから幸村さんが追いかけてくる気配は感じない。それに安堵すると同時に泣きたいような気持ちにもなった。
どこかへいなくなりたい、と思っているとふと視界がひらけた。見上げるほど大きな洞窟がそこにあった。考えている時間はなかった。私は振り返ることなくその洞窟に飛び込んだ。
薄暗い洞窟内はまるで異界のような雰囲気だった。まだ龍穴とはなっていないけれど、いずれそうなるような、どこかエネルギーを感じる場所だった。
洞窟の中は昼間だというのに肌に触れる空気はひんやりと冷たい。思わず腕をさする。
さらに奥まで進むのはやはり怖くて、まだ入り口の光が届く岩陰にしゃがみ込む。
龍穴ではないからきっとこの先は行き止まりで、どこにも繋がってはいないはずなのに、このまま進んでしまったらもう戻れないどこかへ行ってしまいそうな気がした。
「期待しちゃ、だめ」
思わずひとり言葉を零してぎゅっと自分の膝を抱える。小さな声のつもりだったのに洞窟の壁に反響して予想以上に大きく聞こえた。
好きだと告げる彼の声を思い出すだけで胸がいっぱいになる。もうそれだけで幸福で、きっと目が覚めてもこの夢の記憶だけで十分だというのに。
洞窟の湿った岩はお尻の部分を濡らして冷たいし、限界まで走ったあとの横腹の痛みまで現実のようでなくても良いのに。
「これは、夢なんだから」
暗闇へ向かって思わず呟いた言葉はどこへ向かうでもなく消えていく。きつく目を閉じても瞼の裏に彼の姿がありありと浮かんでしまう。そうして想像の中の彼はいつでもこちらに微笑みかけてくるのだから質が悪い。
「……夢ならもう覚めてくれたら良いのに」
目が覚めれば自分はいつもと同じ布団の上で横になっていて、差し込む朝日の光を眩しく思うのだろう。今見ている都合の良い夢も起きればすぐに忘れてしまって、なんだか良い気分だと思いながら一日を始める。――そこまで分かっているのに、どうしていつまで経ってもこの夢は覚めないのだろう。
ぴちゃんと水滴の落ちる音や蝙蝠か何かが羽ばたく音がやけに大きく響く。洞窟の奥は暗いままで、その先はどんなに目を凝らしても見えない。
不安な気持ちがむくむくと大きく広がって、私はさらに目を固く瞑って、強く膝を抱えた。きっと、きっともうすぐ夢から覚めるはずなのだと思いながら。
「こんなところにおられたのですね」
――それなのに、再び目を開けても夢から覚めていなくて。きっと追いかけてこないと思っていた人が、目の前でやさしく微笑んでいた。
「戻りましょう」
やわらかな声が降ってくる。逃げ出した私に対しても彼はやさしい。以前の私はそのやさしさを嬉しく思っていたはずなのに、今はそれが苦しい。
「私の気持ちはご迷惑でしたか?」
「迷惑だなんて……!」
思わず言葉を返したその隙に、彼の手のひらが私の頬を包んで上に傾ける。
彼のまっすぐな瞳がこちらを見つめていた。彼の手のひらの熱が頬に伝わってくる。近い距離に心臓が大きく跳ねた。
「ゆ、幸村さん!」
「すみません、この暗闇ではあなたの顔がよく見えなかったので」
謝りながらも彼の声色はまったく申し訳なさそうには聞こえない。私の顔が見られて満足したかのように口の端がほんの少し持ち上がっている。無理矢理合わせられた視線は逸らすことが出来なかった。彼の瞳がすぐ近くにある。
「ゆきむら、さん……」
二度目に呼んだ彼の名前は今度はひどく弱々しかった。もう彼の瞳の色しか見えない。瞬きすることさえ憚られて、渇きに目がじわりと潤む。
もうこれ以上は目を開けていられないと思ったとき、彼の目がふと細められた。
「失礼しますね」
そう言って彼が私の脇に手を差し入れたかと思うと、ひょいと体が浮いた。
ぱちぱちと瞬きをしているほんの短い間の出来事だった。いつの間にか私の体は彼の肩に担ぎ上げられていた。
「ちょっと、やだ、降ろしてください!」
「無礼は承知の上です。罰ならあとでいくらでも受けましょう」
「罰だなんて! そんなことしませんし出来ませんからお願いです、降ろしてください……!」
私が暴れても彼はびくともしない。あっという間に洞窟から運び出されて、太陽の光に目が眩む。
「もう少しですから、大人しくしていてください」
そう言って彼は花の咲き乱れる野原を横切っていく。あたたかい日差しに、やさしく吹き抜ける風。こんな風に担がれているのでなければどれほど心地良かっただろう。
いつもは私の意思を尊重してくれて、無理強いなんてしない彼が、今ばかりは私の言葉が聞こえないふりをする。
絶対に彼はそんなことしないだろうと分かっているけれども落ちたらどうしようだとか、どうしたって体が密着してしまうことだとかを考えて青くなったり赤くなったりして忙しかった。
「――こちらへ」
どこへ連れて行かれるのかと思っていると、不意に切り株の上に降ろされた。
彼が私と視線を合わせるように跪く。それから逃れるようにまた私は俯いた。明るい陽の下で改めて彼の顔を見れる気がしなかった。
「殿」
彼が私の名前を呼ぶ。その声はひどくやさしく丁寧で、じわりと私の心を絡めとっていく。
今回は頬に触れて無理に前を向かせるようなことを彼はしなかった。
いつもそうだ。彼自身は強い意志を持っていて、いつも迷うことなくまっすぐ前を向いて突き進んでいく。それに対して私はいつもぐじぐじと悩んでいて、自分に自信がなくて、気を付けていないとすぐに卑屈になる。――そんな私を彼はいつもさり気なく側にいて待っていてくれていた。
そっと自分から顔を上げると、やはり彼の瞳が待っていて。そのやわらかな色に目が逸らせなくなる。
「好きです」
先ほども聞いた言葉を彼が繰り返す。私の両手は彼に握られてしまっていてもうさっきのようには逃げられない。彼の握る指先からじわりと体温が伝ってきて、心臓がばくばく鳴るのも止められない。
「好きですよ」
もう一度。
「殿、好きです」
彼が私の手を持ち上げて、そっと指先に口付ける。再び彼が伏せた目を上げて、視線を私と絡める。
――もう、だめだった。
「あなたの心を教えてください」
黙って口を噤んでいるこちらの方が悪いことをしているような気分になる。
「わ、わたしは……」
もう夢ではないことは分かってしまった。何かの間違いでもないだろう。きっと私の勝手な勘違いでもない。
「幸村さんのことが……」
彼のことが好きだった。答えはずっと前からひとつだったのに、それに向き合うのが怖くて、見て見ぬ振りをしていた。それは先ほど彼に思いを告げられてからも。
それでも、彼に告白されたとき最初に体の中を駆け巡ったのは確かに喜びだったのだ。
繋がれたままだった彼の手をそっと握り返す。きちんと前を向くと、驚いたのか彼の目がかすかに丸くなっていた。それを少しだけかわいいと思う。緊張で固まっていた体からふと力が抜ける。
「私は幸村さんに恋をしています」
ふわりと風が吹き、足元に咲く花の花弁が舞う。
口から放った言葉はもう元には返らない。きっと彼も聞かなかったふりはしてくれないだろう。もう戻れない。それなのに。
「嬉しいです。あなたと同じ想いだったと知れて」
そう言って微笑む彼の顔を見れば、もう戻りたいとは思えなかった。
2020.08.11