夢の中で誰かが泣いている。私はただそれを止めてあげたかっただけだった。
*
「殿!」
その声に振り返れば、幸村さんがにこにこと笑顔で手を振りながらこちらへ駆けてくるところだった。
「ここにおられたのですね」
「幸村さん」
私を探して邸内を回っていたのか、軽く息を整えて顔を上げた彼はひどく嬉しそうにしていた。縁側に座ってぼんやりと庭を眺めていただけだったのだけれど、自室にも不在で誰にも行き先を告げていなかったから無駄に彼に探し回らせてしまったのだろう。申し訳なく思いながらも、彼がわざわざ私を探し回るほどの用件とは何だろうと首を傾げる。
「お団子をいただいたのです。良かったら殿も一緒にどうですか?」
「いえ、私は……」
「ふたり分包んで持ってきたのです」
断って立ち去ろうとしたけれども、それより早く私の言葉を遮って幸村さんが隣に腰掛ける。ほんの少し浮かせた腰は行き場をなくして、私は仕方なくその場に座り直すしかなかった。
わざわざ私を探して持ってきてくれた人の厚意を無碍にする勇気はなかった。
「……私までもらってしまって良いんですか」
「もちろんです。このあたりで今人気の団子屋だそうですよ。甘いものがお好きならぜひ」
何の役にも立てていない私が、という意味は彼には伝わらなかったようだった。
戦う力も、浄化の力も持たない私は、異世界からやってきたお荷物だった。
五月くんのいとこだから一応は星の一族の血は入っているものの、筒見屋のつばきさんとあやめちゃんのように伝承に詳しく、こちらの世界を案内出来るわけでもない。異世界に来る前はたまに見ていた夢もこちらにきてからは一切見なくなった。八葉に選ばれ、星の一族として龍神や神子の伝承にも通じている五月くんとは同じ天野家の人間でも雲泥の差だった。
それでも五月くんなんかは『はそれで良いんだよ』と言ってくれる。私にそれ以上は求めない。――そのやさしさがありがたくも、苦しかった。
この世界にやってきたからには、自分にも何か役目があれば良かったのに。そう思ったのは一度や二度ではない。
「殿」
「はい! 何でしょうか」
「もしかして、お腹が空いていませんでしたか?」
つい話の途中でぼんやりしてしまったらしい。彼が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。この人にこんな表情をさせたいわけではないのにと罪悪感が募る。
「甘いものが好物と聞いたのですが」
そう言いながら彼は包みを解く。中から現れた団子は確かにとても美味しそうに見えた。自分はそんなこと彼に言った覚えはないが、誰から聞いたのか。
「……実は、最近あまり食事を召し上がっていないと聞いたものですから。これなら口にしていただけるのではと思ったのです」
「ご、ごめんなさい!」
パッと頭を下げると、彼の息を飲む音が聞こえた。あまりにも突然の行動に驚かせてしまったのだろうけれど、こういうのは先手必勝だ。
「すみません、心配を掛けて。でも食事も半分以上は食べていますし! せっかくのおいしいご飯を半分も残してしまうのは申し訳ないなと思っているのですが……。でも最低限は食べているので大丈夫です!」
勢いよく立ち上がって力こぶを作ってみせる。何かあるとは思っていたけれどこういうことだったとは。きっと彼は五月くんか七緒ちゃんあたりに言われてやってきたのだろう。
精一杯大丈夫だとアピールしてみたけれど、幸村さんはまだどこか哀しげな瞳でこちらを見つめていた。
「殿は十分頑張っておられる」
私は思わずぐっと奥歯を噛み締めて俯いた。ゆっくりと熱くなった息を吐き出す。こっそり吐いた息は誰にも気付かれなかったはずだった。
「……そんなこと、ありません」
いっぱいいっぱいになって、あまりよく考えないうちに卑屈な言葉が口をついて出てしまった。
そんな、認めるようなことを言わないでほしかった。――つい、縋ってしまいそうになるから。
「でも」
このまま落ち込んだ姿を見せたって彼が益々心配するだけだ。こんな風に時間を使わせて、心を砕かせるべきではない。彼にはもっとやるべきことがあるはずなのだ。八葉として。真田幸村として。
「でも、幸村さんにそう言ってもらえて嬉しいです。ありがとうございます」
そう言って微笑んでみせる。きちんと笑えたはずだ。そうして何とか表情筋を持ち上げたはずの頬に不意にあたたかいものが触れた。
「えっ」
――幸村さんの手が頬に触れていた。
思わず驚きで零れ落ちた私の声に、彼の方がびくりと肩を震わせた。我に返ったのか、視線が合った彼の目が丸くなる。
「す、すみません! 勝手に触れて……!」
謝罪の言葉とともに彼の手がパッと離れていく。咄嗟のことに固まっていたはずなのに、思いがけない彼の行動に困っていたはずなのに、なぜだかそれがひどく名残惜しく感じた。
「そうだ、あなたの仕事ぶりといえば!」
あからさまに話題を変え、明るい声で彼が言う。
「今日も書庫が随分と片付いたとつばき殿が喜んでいましたよ。そのお礼がしたいとも仰っていました」
当たり前のことをしただけなのに。衣食住を提供してもらっている分働いて返しているだけだというのに、彼女は私に対して甘いところがある。
「何か欲しい物を考えておいた方が良いかもしれませんね」
「欲しい物なんて……」
「そうだ、今度一緒に町へ行きませんか? 実際に見て回れば何か思いつくかもしれません」
楽しそうに話す彼に行かないなどと言うのは悪いような気がしてしまう。何か上手い言い訳はないかと探しているうちに彼は嬉しそうな様子で話を進めていく。きっと断らせる気がないのだ。
何故だろう、彼も暇ではないはずなのに。
「あなたの好きなものを教えてください」
そう言って彼が微笑む。目の奥が熱い。今度こそ我慢出来そうになかった。
――彼は甘いものが私の好物だといつの間にか知っていたのに。
これ以上彼に教えることがあるのか疑問だった。私自身よりも彼の方が私について詳しいような気さえする。
ぽとりと、ひとつの雫が落ちて地面に吸い込まれていった。
2020.08.09