いつも一緒にお弁当を食べている友達が最近付き合い始めた彼氏とお昼ご飯を食べたいというので、じゃあ別の友達と食べようと思っていたら「ちゃんは彼氏のところ行かないの?」と不思議そうに問われてしまった。友達のあまりに正当な意見に「う、うん……」としか答えられなかった。私のそれを肯定だと捉えたらしい彼女に「途中まで一緒に行こ」とまで言われてしまえば、もう私に教室を出る以外の選択肢は残されていなかったのだ。

八木沢くんに会いたいという気持ちがあるのは本当だった。大会のあった彼とは最近ゆっくり話すことも出来なかったし、私は八木沢くんの彼女なんだからお昼に誘うぐらいいいだろうという気持ちも少しあった。

とはいえ、友達と別れるとすぐに後悔した。彼のクラスは一番端っこで、私のクラスからは少し離れている。こんなに遠かっただろうかと考えて、私は今まで自分から彼のクラスまで会いに行ったことがなかったことに気が付いた。女子の比率が圧倒的に少ないこの学校でお昼休みにクラスまで言って一緒にお弁当を食べようだなんて誘ったら一気に学校中の噂になってしまうに違いない。どうやって彼を呼び出したら良いのだろうと今さら悩んでいると、彼のクラスの入り口にいくつか見知った人影があるのが目に入った。

「あれ、先輩も八木沢部長に用事?」
「新くんも?」

私は吹奏楽部部員ではないけれど、彼らとは何度か会っていて面識がある。特に新くんはその人懐っこさと後輩ということから他の部員よりもずっと気楽に話せる。でも基本吹奏楽部の人との距離は微妙だ。初めてたまたま帰り道に会ったときは私から名前を名乗るだけで済ませてしまったから、そのあと八木沢くんが私たちの関係を彼らに伝えたのか、どんな風に言ったのか私は知らない。さらりと事実を述べたのか、それとも無理矢理話題を変えてごまかしたのか。気になるけれども未だ聞けていない。

「オレの用事はもう終わったよ〜。次は伊織先輩の番! 伊織先輩も八木沢部長に相談があるんだって〜!」
「相談?」
「あの、僕のは、相談っていうほどでもなくて……」

八木沢くんが吹奏楽部の部長として後輩に慕われているのは知っていたけれども、こんな風に休み時間に三年のクラスに来るほどだとは思っていなかったから少し驚いた。引退したとはいえ、その直後では何かと一二年生だけでは解決出来ない問題が起きるのだろう。

さんが来るなんて珍しいね。ちょっと待っててくれるかい?」
「あ、いや、いいです。私の用事は大したものじゃないし、いつでも大丈夫だから! 伊織くんの話ゆっくり聞いてあげて!」
「八木沢ー! ノート貸してくれ!」
「こっちは英語の辞書!」

そうしている間に彼を呼ぶ声はさらに増える。今度は隣のクラスの男子が来たらしい。本当に八木沢くんは皆から頼られる。

「でも」
「ホント、何でもないから! それじゃあまた放課後!」

それだけ言って私は八木沢くんのクラスから退散した。八木沢くんが人気者なことをすっかり忘れていた。軽い気持ちでお昼を一緒に食べようなんて考えるんじゃなかった。約束もしないで、彼は忙しいに決まってる。いつもは八木沢くんからお昼に誘ってくれるから知らなかっただけで。

友達とお昼食べるのも、この時間からでは混ざりにくい。彼女たちのところに行けばきっと迎えてくれるだろうけど、絶対に理由を聞かれる。私が弱気になって帰ってきたことを説明するのがちょっとイヤだった。『八木沢くんならがお昼に誘えば断らないのになんで言わなかったの?!』って言われるのが目に見えていたから。私だって、言えば八木沢くんなら何とか時間を作ってくれただろうことは分かっている。八木沢くんは優しい人だから嫌な顔なんてするはずもない。でも、私にそこまでの価値があるのかなと思ってしまって。

無意識のうちに足はひと気のない方に向かっていた。こっそりお弁当を食べて早く教室に戻ろう。いや、あまりにも早く戻ったら疑われちゃうかもしれないななんてことを考えているとどんどん足取りが重くなっていく。やっぱり最初にあまり気乗りしなかった時点でちゃんと断れば良かったな。

「――さんっ!」

ひとりで歩いていたはずの校舎裏で、名前を呼ばれたことに驚いた。いつも学校では名前を呼ばないはずのその声が今ここで聞こえたことが信じられない気持ちだった。例え周りに誰もいなくても学校では頑なに苗字にさん付けだったのに。

「ああ、良かった……ハァ追いつい……」
「八木沢くん大丈夫?!」

完全に息が切れている八木沢くんの背中をさする。こんなに彼が慌ててやってくるなんて何があったのだろう。私が彼のクラスに何か忘れ物をしてしまったとか――。『ごめん』と反射的に謝ろうと口を開くよりも早く、八木沢くんの声が被さった。

「あの、良かったら、お昼を一緒に食べませんか?」

それは私が言いたくて、でも口に出せなかった言葉だった。

「な、んで……」

そもそも八木沢くんに用事がある人はまだ沢山いたはずだ。その人たちはどうしたのだろう。八木沢くんは忙しいはずなのに、どうして。『なんで』と『どうして』ばかりが頭の中をぐるぐると回る。

「それは……あなたが僕のクラスまで会いに来てくれたのが嬉しかったから」

彼の言葉にさらに驚いた。そしてその一瞬あとに襲ってきたのは羞恥だった。バレていた。全身の血が顔に集まってきたかのように熱くなった。その顔を隠すように俯くと、今度は八木沢くんが慌てた。

「もしかして違いましたか?! 皆もあれはさんが僕をお昼に誘いに来たのだと言うし。僕の勝手な勘違いだったらすみません」
「ち、違いません……」
「良かった」

そう言って八木沢くんは安心したように笑う。急に教室まで押しかけたかと思えば何も用件は伝えずに帰って行った私を気にかけてくれる。それを嬉しいと言ってくれる。急に押しかけたこと咎めてくれてもいいのに。何も言えずに逃げるように帰ったこと咎めてくれてもいいのに。

「ごめんね」
「謝らないでください。先ほどお伝えしたように、僕は嬉しかったんですから」
「……八木沢くんは私に甘すぎるよ」
「そうでしょうか。優しいのはあなたですよ。伊織たちに気を遣ってくれたんでしょう?」

そう言って彼は私の走って乱れたらしい髪の毛を掬って耳に掛け直してくれる。ほら、やっぱり八木沢くんは私を甘やかす。私のはそんなにいいものじゃないのに。なんだか善良な彼を騙しているような気持ちになる。申し訳なさでいっぱいになっていると、「それに」と彼は続ける。

「これくらいで甘いだなんて言わないでください。僕はもっとあなたを甘やかしたいんです」

臆せずにそんなことを言う彼に私は思わず顔を覆った。どうして、どうしてこの人は。恋愛事には疎くてすぐ真っ赤になって照れるくせに、こういうことはすんなりと口に出せるのか。

「お弁当、食べましょうか」

ゆっくり、顔を覆う手をはずすと指の隙間から穏やかに微笑む八木沢くんが見えた。

2014.07.13