「竜崎センパーイ!」
「ん?」

 私が走って追いかけながら名前を呼ぶと彼が立ち止まってこちらを振り返る。彼の視界に自分が映ったと分かるこの瞬間が、私は好きだった。

「あの! 先輩に、聞きたい、ことが!」
「落ち着け。息を整えてからでいいから」

 膝に手をついてぜぇはぁと荒い呼吸をする私に呆れたように溜息を吐きながらも、ちゃんと待ってくれる。オケ部の練習のときも、そうでないときも。
 深呼吸を何度もしてやっと息が整ったところでぱっと顔を上げる。視線の合った竜崎先輩の顔は思いの外近くにあって、彼の目はまぁるく見開かれていた。

「ここのフレーズなんですけど、何回弾いてもしっくりこなくて、竜崎先輩にアドバイスもらえたらなぁなんて――」
「おっ、今日もアタック中? 熱いねー!」

 突然後ろから投げかけられた言葉に驚いて振り返ると、同じオケ部の先輩たちがにやにやと笑いながらどこか温かい目でこちらを見ていた。

「そ、そんなんじゃありません!」
「そうだぞ、彼女は真面目に音楽について質問しに来たんだ。失礼なことを言うな!」

 握り拳を作り、顔を真っ赤に染めながら彼がからかうオケ部の先輩たちを大きな声で散らす。
 竜崎先輩の言葉はほんの少しだけ下心のある私の胸にぐさりと刺さった。

「竜崎はこんなだけど、俺たちは応援してるから! 挫けるなよー」

 竜崎先輩と仲の良い彼らはどやされてもへこたれることなく、陽気に手を振りながら去って行く。悪い人たちではないのは分かっているけれども、今ばかりは掻き乱すだけ掻き乱しといて去って行く彼らが恨めしかった。

「まったく……。それで、どこのフレーズだって?」
「……はい、ここです」

 楽譜を差し出しながら、私が真面目な後輩だと信じて疑わない竜崎先輩に対してだんだん申し訳ない気持ちになってきた。
 練習を見てほしかったのは本当だけれども、邪な気持ちがこれっぽちも混じっていなかったかと言われると嘘になる。純粋にこちらを信じてくれている先輩にもしバレたら呆れられて、嫌われてしまうかも――。
 そう考えると居ても立っても居られなくて、「場所は森の広場に移動するか」と呟いている先輩の手から楽譜を奪い取った。

「ごめんなさい! やっぱりいいです……!」
「なっ!?」

 先輩は一瞬だけ驚いたように目を丸くさせたけれども、すぐに先輩の眉間の皺が深くなる。

「急にどうした。俺のことなら練習室の予約の時間まで余裕があるから遠慮しなくていい」
「本当にいいんですー!」
「おい、こら、待て! 逃げるな!」

 いくら大丈夫だと言っても先輩は追いかけてくる。正門前を駆けていくと周りの生徒たちが何事かとこちらを振り返ったけれども気にしている余裕はない。

「あいつらまた追いかけっこしてるよ。本当に仲良いな」
「ちがうんですー!」

 先程のオケ部の先輩たちも、全速力で逃げる私と追う竜崎先輩を見て笑う。私は叫んで否定したけれども、竜崎先輩の方は黙って私を追ってくる。肩越しに見えたその真剣な表情に、ひえっと息が止まりそうになりながら私はさらに足を早く動かした。

 結局私が森の広場で竜崎先輩に捕まってしまうまで、あと少し。

2021.03.22