「姫様、このような時間にこのような場所で、危のうございます!」

そう言って蘭丸は私の後ろをついてくる。小言を言いながらも真面目な蘭丸はどこまで進んでもちゃあんと追いかけてくるのだ。

「供もつけずに出歩いては」

時はもう夕刻。今はまだ橙の陽が差し込んでいるがこのままでは私の帰る前に辺りは暗くなるだろう。蘭丸の言うことは尤もで、こんなところをこんな時間に仮にも一国の姫が供もつけずに出歩くなどと自分でも思うが仕方ない。

邸の庭を散歩しているとふと蘭丸のことを思い出した。何か彼を連想させるようなものがあったわけではないのに。ふと形作られた彼の姿はどんどん私の心を占めていって、どうしようもなく会いたくなった。遠目でもいいから一目本物の蘭丸の姿を見なければおさまらなくて、こっそり邸を抜け出した。もうすぐ陽も暮れようという時間に出掛けたいなどと言っても聞き入れてもらえるはずがないと分かっていた。だから、こっそり抜け出して会いにきた。

「姫様! 聞いておられますか!」
「聞いてるっ! ちゃんと聞いているわ」

蘭丸に小言を言われるのもいつものことで、それよりも会えた嬉しさの方が勝る。今だってうっかりすると口元が緩んでしまいそうになるのを必死で堪えている。

「そもそも、姫様は修練場に一体何の用が――」
「……」

分からないなどとは言わせない。私が今日修練場に足を運んだとき、周りの者も『今日も姫様がいらしてるぞ!』などとわざと蘭丸に聞こえるように言っていたのだ。自分でも分かりやすい態度だと思っている。修練場に着いて『蘭丸っ!』と呼んだ声がいつもよりずっと弾んでいたのを自覚している。これでは周りの者になんと噂されても仕方ない。

「姫様」

それに対し、蘭丸の私を呼ぶ声色はどうだろうか。私が会いたいから会いに来た。それだけで十分だったはずだけれど、蘭丸に迷惑を掛けたかったわけではない。嫌われたくない。

「分かりました。私はもう帰りますから蘭丸は鍛錬に戻ってください」
「そんなこと出来ません」

蘭丸はきっぱりと言い切る。ここでこんな風に言われるなんて予想していなくて驚いた。あんなに小言を言っていたのに、いざ私が聞き分け良くなると今度は蘭丸が反対のことを言う。じゃあ私はどうしたらいいのか。

「ここから姫様おひとりで帰るなど、どんな危険があるか分かりません」
「邸の者を呼ぶから大丈夫です。きっとすぐそこまで私を探しに来ているでしょうから」
「ここから誰が呼びに行くのですか? 待ってる間は?」
「それは……」

言葉に詰まる。蘭丸の言う通りだ。東の空はもうだんだんと群青色に染まっている。蘭丸の向こう側できらりと星が光っているのが見えた。もうすぐ完全に日が暮れる。

「でも、修練場までひとりで来れたのだし、大丈夫よ!」
「俺が、姫様を危険な目に合わせたくないんです。どうして分からないのですか」

ドキリと心臓が鳴る。その言葉はどういう意味なのか。蘭丸は信長様の小姓で、私の従者ではない。私を守ることは蘭丸の仕事ではないのに。その言い方ではまるで。

「それは――」
「俺がお送り致しますから」

やわらかく蘭丸が微笑んで言うものだから、私の言葉は途中で消えてしまった。蘭丸が歩き出したあとを私がついていく。先ほどまでは私が蘭丸の方を振り向かない限り私の緩む口元は簡単に隠せたのに、今は不意に振り返ったときに表情を隠す術がない。

「蘭丸」
「何でしょう」
「ありがとう」
「いえ――」

赤く染まった頬は見られてしまっただろうか。

2015.07.12