カタリと隣の椅子が引かれる音がした。

ハッとしてシャーペンを滑らせていたノートから視線を上げると、長嶺が涼しい顔で腰掛けるところだった。

心臓が変な風に鳴る。その警告を合図に慌ててパッと視線を下げた。長嶺の顔は見慣れているはずなのに、昨日までは何もなくても一目見たいと願っていたはずなのに、今だけは会いたくなかった。本当を言うと、こうして長嶺の隣に座ることなんてもうやってこないと思っていたのだ。

――『私は長嶺が好きだよ』

昨日自分の発した言葉が思い出される。長嶺の首に巻かれたマフラーのチェックの柄も、彼の口から吐かれた白い息もはっきり覚えている。そのときの長嶺の、鳩が豆鉄砲を食ったような驚いた顔も。

私は、何てことを言ってしまったのだろう。今まで上手に上手に隠してきたはずだったのに。長嶺とは同じブラバン部の仲間だった、それだけで満足していたはずなのに。長嶺の驚いた視線に堪えきれなくて、長嶺が何か言う前に私はその場から逃げ出してしまった。まるで私から告白されるなんて考えたことがなかったと言う顔だった。返事なんて聞くまでもないと思った。

カリカリと、自分のペンがノートの上を走る音が聞こえる。

隣に座った長嶺が何をしているか気になったけれど、そちらを見て確かめることも出来ない。ここで私から何て声を掛ければ良いのか分からなかったし、かと言って荷物をまとめて逃げようとすればそれこそ彼に捕まってしまいそうに思えた。この静寂の均衡を崩してしまえば次に何が起こるか分からない。だから私は必死に過去問題集を解くふりをしている。

赤ペンに持ち替えようとシャーペンを置いた瞬間、長嶺の手が私の手を握った。

「なっ――」

あまりにも唐突な行動に思わず彼の名前を叫びそうになった。しかしここが静かな図書室だということを思い出して既のところで音を飲み込んだ。反射的に手を引っ込めようとしたが長嶺がそれをさせなかった。

長嶺の手は私の手をすっぽり包んでしまうほど大きいのだと、今初めて知った。

長嶺は私の手を包んで、ほぐして、その隙間に小さく折りたたんだメモを滑り込ませる。そうして、もう一度私の手の甲に触れると、目的は達成したとでも言うように離れていく。

うるさい心臓を押さえつけ、自由になった右手を引っ込める。握らされたメモを手が震えないよう気をつけながら開いた。

『このあとブラバン部に寄ってから帰る。少し待っていなさい』

長嶺らしい神経質そうな文字が並んでいる。分かりづらいがこれは一緒に帰ろうという長嶺なりのお誘いなのだと理解した。長嶺との付き合いはそこそこ長いので言いたいことは理解出来る。理解は出来るが、何を考えているかまでは分からない。そんな長嶺の心を知りたくて私は一歩踏み出そうと思ったのだ。

「なんで――」
「君は俺のことが好き、なんだろう?」

長嶺の低い声が私の耳朶をくすぐる。

「返事を聞きたくないのか」

聞きたいような、聞きたくないような。告白した以上、これまでと同じ関係には戻れないと分かっているのに躊躇してしまう。このまま、どっちつかずのまま、卒業するのも悪くないんじゃないかと臆病者の私が言うのだ。

「君がそう言うのなら、私はそれでも構わないが」

再び長嶺の左手が私の右手を包む。でも今度はメモを持っていなくて、ただ指が絡められるだけだった。長嶺の手は私のものよりも少し温度が低い。じわじわと私の熱が長嶺に移っていく。

ぬるくなった体温が、私の手を机に縫い付ける。

こちらは手を引っ込めることも、かと言って握り返すことも出来ずに俯くことしかないのに、長嶺の方は平然としているのだ。他の生徒のペンを走らせる音や本のページを捲る音も図書室特有のやわらかい静けさの中に吸い込まれてしまって、どこか非現実だった。俯いた先の見慣れたはずの制服のスカートも、いつもより幾分か遠くに感じられる。

「――

ひどくやわらかい音で名前を呼ばれた。ドキリとまた変な風に心臓が鳴る。でも今度は嫌な感じではない。「」と再び彼が低い声で囁く。私を捕らえた手に少しだけ力が加わる。ぎゅっと私の手を握る左手は何を訴えているのか。堪え切れなくなって勇気を出して長嶺の方へ顔を上げると、小さく微笑んだ表情があった。

「やっとこちらを見たな」

私の手を握る意味だとか、私を見つめる瞳だとか、いつもとは違うように聞こえる声だとか、その全てが、まるで私のものが移ってしまったかのように熱っぽく思える。昨日までそうじゃなかったはずなのに、どうして。――本当に私が移してしまったのだろうか。

「……期待、してもいい?」
「さあ、どうだろうな」

そう言って長嶺がまた薄く笑う。でもその奥の瞳はひどくやわらかい光を宿していることを私は知っているのだ。

2017.03.10