長嶺は何にも分かっちゃいない。

「君はどうしてまだ残っている? 片付けはもう疾うに終わっているはずだ。早く帰りまたえ」
「ちょっと、CDが見つからなくて」

本当は、ブラスバンド部の部長として生徒会に提出する書類を書いている長嶺を待っていた。楽譜を探していたというのは口実で、居残ってまで今すぐほしいCDじゃない。

「阿藤たちは帰りにアイスクリームを食べに行くと言っていたが君はいいのか?」
「私は、今日はパス」

皆はさっさと帰ったけれども私は棚の前をうろうろしていた。特に長嶺と話たいことがあったわけではないけれど、少しだけでもふたりきりになれたらいいなと。ふたりきりで帰れたらいいなと。そんな淡い期待で私がこの場にいることを長嶺は知らない。

「珍しいな。甘いものが好きな君が誘いに乗らないとは。……もし、ダイエットしようとしているのならやめた方がいい。どうせ続きはしない」
「余計なお世話!」

彼はこうしてよくからかってくる。わざと意地悪を言うのは彼がそれなりに心を許している証拠だ。親しくない相手にはもっと余所行きの、物腰の柔らかい長嶺くんになる。だから、私はこの皮肉屋の長嶺が嫌いじゃない。

そのとき、ふわりとカーテンが風で膨らむのと一緒に突き抜けるようなトランペットの音が一緒に飛び込んできた。

「この音は――」
「吹奏楽部だね」

長嶺の言葉を引き継ぐ。彼の言葉の先を言うと長嶺は苦々しい表情をする。その表情の意味する感情は分からなくもない。

「君は吹奏楽部に残らなくて良かったのかい?」

この言葉は耳にタコだ。私とふたりきりになると長嶺はよくこの話題を持ち出す。「君は八木沢と親しかったはずだろう?」とも。確かに私は八木沢くんとも仲が良かった。でもそれは八木沢くんと長嶺と私の三人だったはずだ。

「私、ブラスバンド部の一員だよ」

私は長嶺がいいのに。何故か長嶺は、私の気持ちに気付かない。長嶺なら気付いても良さそうなのにそうならないのは八木沢くんの存在が影響しているのかもしれなかった。

長嶺は、私が吹奏楽部だとかブラバン部のことを抜きにして、八木沢と長嶺個人を考えたとき八木沢を選ぶだろうと思い込んでいる節がある。

長嶺は自分に自信があってプライドが高いくせに、すぐ人を試すような発言をする。わざと突き放すようなことを言って、それでも自分を選ぶのかどうか試している。けれども、この質問をするときばかりは少し違って、私がいくらブラバン部を選んだのだと言っても、いつもみたいに満足そうな顔をしない。いつまでも私を疑うような視線を向けるのだ。これだけ言っても分からないなんてと悲しみを通り越していっそ腹立たしいとさえ思う。

トランペットの音が止んだ。一曲吹き終わってそろそろ片付けて帰るのだろう。そろそろ最終下校時刻も近い。

「……何のCDを探しているんだ」
「ドビュッシーの……」
「それなら確かこの辺に」

長嶺が不意に私の後ろから棚を覗き込んで手を伸ばす。長嶺と棚に挟まれてドキリと体が強張る。長嶺はこの距離の近さを何とも思ってはいないのだろうけど。長嶺は背が高いから、これだけ距離が近くても頭の位置は随分と高低差がある。きっと私は今長嶺の視界に入っていないんじゃないかとすら思う。

彼の腕が右へ左へと棚の中のCDタイトルを追うたびに心臓の音が煩くなる。離れては近づく距離に、こんなにも心臓が振り回されてしまうのは長嶺だけだ。

「――あった。誰かが返すときに適当な位置に戻したようだ。まったく、一度注意しなきゃならないな」

やはり長嶺は平常心で、私のことなんかこれっぽっちも意識していない。私がこのまま体重を傾ければ長嶺の胸に飛び込めることなんて少しも考えちゃいない。いっそそれを現実にしてしまおうかという考えが頭を掠めた。

「長嶺……」

その大きな胸板に飛び込んだら彼はどんな表情を見せるだろうか。珍しく慌てたりするのだろうか。長嶺の狼狽える姿を見てみたいとも思う。

私の心臓がこんなにもうるさく鳴っていることを知ってほしい。知ってほしくない。名前を呼ばれて長嶺がこちらへ視線を落とす。さすがにそれを正面から受け止める勇気はなかった。自分から呼んだくせに視線を注がれると小さく小さく縮こまる。

「ほら、お目当てのものは見つかったのだから早く帰りなさい」

スッと影が引いて長嶺が離れたのが分かった。ようやく息が出来る心地がした。顔を上げると、長嶺はすでにこちらに背を向けていた。先ほどまで近づきすぎて困っていたのに、離れるとその隙間がさびしくなる。そう思うと咄嗟に手を伸ばしてしまっていた。

「長嶺っ!待って――」
「そういえば――」

長嶺と私の声が重なった。長嶺が何かを思い出したかのように急に立ち止まって振り返るから、私の彼を引き止めるため手を伸ばしながら大きく踏み出した一歩が勢い余ってしまった。急に止まることが出来なくて、バランスを保つため彼にしがみついてしまう。

ふわりと、お香のにおいがした。

「……君にしては随分情熱的じゃないか?」

先に自分を取り戻したのは長嶺の方だった。さっきまで彼に抱きついたらどうなるだろうとか、長嶺は狼狽えるだろうかとか考えていたくせに、現実になると狼狽えて動揺しているのは私ばかりだった。咄嗟に私を支えるために腰に回された腕だとか、熱を感じられるほど近い距離だとかに頭が沸騰しそうになる。

開いた窓から差し込む橙は、長い影を作り出して夜の気配を伴っていた。

「そんなに私が恋しかったかい?」
「そうだよ」
「は? 君は何を――」

私が、長嶺だけを好きなこと、どうか知っていて。


2014.08.31