ちょっと母屋の台所に行こうと思ったのがいけなかった。昨夜おばさんが梅ゼリーが冷蔵庫にあるから好きなときに食べてねと言った言葉を思い出して居間を通り抜けようとしたところで長嶺さんとばったり会ってしまった。おばさんはどこかに出掛けているらしく姿が見えない。彼と目があった瞬間嫌な予感がした。

「君、ちょっとこっちに来て座りたまえ」
「えっ、あの、私急いでるんで――いや、何でもないです、座らせていただきます」

長嶺さんがジロリと睨んできたので私は彼の指示しかなかった。近づけば何故か彼の座るすぐ隣を示されたので許される限り距離をとって正座する。今度は一体何を怒られるのだろうか。全く心当たりがないのだけれど長嶺さんは大抵私の思いもよらないことを叱ってくるので今回も私が気付かないうちに何かしてしまったのだろう。ビクビクしながらお叱りの言葉を待っていたのだけれど、いつものお小言は降ってこなかった。

「三十分経ったら起こしてくれ」

お小言の代わりにそれだけ言うと彼はごろんと横になった。私の膝に頭を乗せて。

「何なんですかコレ」
「何か文句でも?」

そう彼は当然のように言うけれどもこちらとしては文句しかなかった。タダで貸してやるほど私の膝は安くない。

「君には貸しがあるだろう?」
「うっ…!」

長嶺さんの言う通りだった。一番最近では、この間財布を忘れて学校に行ってしまったとき自販機の前に立っていたら彼がコーヒー牛乳を買ってくれた。いつも当たりを連発させる新くんにジュースをもらおうと思っていたのだけれど、長嶺さんが自販機にお金を入れてくれたのでありがたくごちそうになることにした。ただし、飲む物まで勝手に決められてしまったが。本当はいちご牛乳が飲みたかった。

ともあれ、それ以外にも彼に借りがあることは確かなのでここは素直に膝を貸すことにする。これで今までのことがチャラになるのであれば安いものだ。

「三十分だけですからね」
「私も忙しいんだ。それ以上は困る」

忙しいならなおさら目覚ましをセットしてベッドで寝た方がいいんじゃないかと思った。思ったけれどそれは口に出さなかった。また貸しを忘れたのかとかなんとか言われて丸め込まれるのが分かっていたから。

暇なのでテレビでも見ようかとリモコンで電源をつける。テレビの中から何やら楽しそうな笑い声がドッと溢れてきた。

「うるさい」
「……はい」

おとなしくテレビのスイッチを消す。さっきよりも静寂が増したような気がする。すぐに自分の部屋に戻るつもりだったので携帯も持ってきていない。梅ゼリーも食べれていない。テレビも点けれないとなれば完全にすることがなかった。意識は自然と膝の上に乗っているものに向いてしまう。

この人は一体どういうつもりなんだろう。学校では近づくなと言うくせに、私が自販機の前で困っていれば助けてくれるし、家ではこうして膝枕を強要してくる。困ってるところを助けてくれるのは同じ学校の先輩として、まあいい。でも今の状況をどう捉えたらいいのか判断に困る。

「長嶺さーん?」

いたたまれなくなって思わず長嶺さんに話しかける。せめて向こうを向いて寝てくれればいいのに、何故か長嶺さんは仰向けで寝転がった。顔が見えるから余計にドキドキしてしまう。……これは猫を膝に乗せていると思えばいいのだ。ものすごく大きな猫が私の膝で寝ている。

「……眼鏡掛けたまま寝たんですか?」

何かの拍子に長嶺さんを膝から転がり落としてしまったとして、それで眼鏡を壊して弁償を迫られるなんてまっぴら御免だ。とりあえずそれだけは避けようと彼の眼鏡に手を掛けた。

正直、眼鏡を外そうとすれば起きると思っていた。神経質そうな彼のことだ。ちょっとでも触れれば起きて嫌味を言われる、もしくは最初から寝てなんかいなくて嫌味を言われるんじゃないかと半分覚悟していた。それなのにあっさり彼の眼鏡は外されてしまった。寝付きが悪そうなイメージだったのにこんなすぐ寝入ってしまうなんて余程疲れていたのか。

離れとは言え、同じ敷地内に暮らしているので彼が眼鏡を外しているところは何度か見たことがある。けれどもこんな至近距離で見たのは初めてで、眼鏡を掛けずに眠る彼はなんだかひどく無防備に見えた。

不意に以前狩野先輩が長嶺さんの顔だけは良いと言っていたのを思い出した。そのときの私はこういう顔は好みじゃないから狩野先輩の話はよく分からないと思っていた。けれどもじっくり見ればまぁ、悪くはない。

「――君の膝の上は存外心地がいいものだな」

寝ていると思っていた長嶺さんが目を開けて薄く笑いながらそんなことを言うものだから、瞬間、ドキリと心臓が音を立てた。その慣れない感覚に私は思わず立ち上がる。長嶺さんの頭が勢いよく落ちてゴンと鈍い音がした。

「〜〜〜〜ッ! 君ね、一体どういう――」
「長嶺さんこそどういうつもりなんですか、こんな…っ!」

起き上がった彼はテーブルの足に頭をぶつけたらしく額を押さえている。けれども私はそれどころじゃなかった。未だに心臓がうるさい。

「や、八木沢部長に言いつけてやる!!」
「待ちたまえ、八木沢に言いつけるとはどういうことだ」
「八木沢部長は困ったことがあったら相談に乗ると言ってくださいました!」
「だから何で――」
「困るんです!!」

長嶺さんは何も分かっていない。

「こまるんです」

彼はただ戯れのつもりかもしれない。私が戸惑っているのを見て楽しんでいるだけかもしれない。けれどもそれをやられるこちらとしては、たまったもんじゃない。

「大体っ、膝枕してくれなんてセクハラですっ!」

私はそれだけ言い放つと彼が何か言い返してくる前に自分の部屋へ逃げ帰る。一度同意してしまったとはいえ、膝枕なんてやっぱりおかしい。私は間違ったことは何一つ言っていないはずだ。やっぱり明日八木沢部長と狩野先輩火積くんと伊織くんと新くん、吹奏楽部全員にこのことを相談するべきかもしれなかった。

2014.06.04