おそらく一番の原因は私が彼の服の裾を踏んでしまったことだろう。

 ドタバタと立てた大きな音に、城中の人が起きてしまったのではないかと思った。
 夜も更けたころ喉の渇きを覚えて部屋を出て、角を曲がるところでちょうど鉢合わせた三成さんの姿に驚いて勢いよく仰け反ったら勢いがよすぎてバランスを崩した。彼が咄嗟に引き寄せてくれたのに、それにさらに動揺してまたぐらりと景色が傾いたところまでは覚えている。

「……危なっかしいな」

 頭のすぐ上で彼の声がする。
 ぎゅっときつく瞑っていた目を開ける。どこかで見たような柄の生地が目の前にあった。ああこれは三成さんの服だと思いながら床に手をついて少しだけ体を起こすと、背中に彼の手が回されていることに気が付いた。意識すると途端に彼の手のひらが熱く感じられた。
 もしかしなくとも、この体勢は――

「わっ、あの、三成さん……!」
「おい、暴れるな」

 彼の上に乗っていることに気付いて慌てて離れようと腕に力を入れたのに、彼の回した手のひらが私の背中を押さえつけて動けない。これではまるでぎゅっと抱き込まれているようだと思った瞬間、体中が燃えるように熱くなった。

「一回落ち着け」
「ご、ごめんなさい!」

 彼の手のひらを振り切るように無理矢理起き上がって彼の上から退く。それに続いて彼も後頭部を押さえながら上半身を起こした。
 顔を上げた彼と目を合わせるのが恥ずかしくて、私は咄嗟に俯いた。満月の明かりで出来た私の影が床に落ちていた。
 
「まったく、頭を打ったぞ」
「えっ、嘘、大丈夫ですか!? 本当にごめんなさい! ちょっと見せてください!」

 彼に怪我をさせたとなったら大変だ。彼はえらい人で、ここにいる皆にとって大切な人で、この世界に必要とされている人だ。

 彼の打ったところを見るために顔を押さえつけて後ろを覗き込む。そっと後頭部を触ってみたけれど濡れた感覚はなくて、血は出ていないようだとひとまず安堵する。触れても彼は痛がる様子を見せなかったけれども、少し腫れているようにも思える。
 夜の暗がりの中では患部がどうなっているのかはっきり分からない。もう少しよく見ようと顔を近付けると、うっかり傷口を触ってしまったのか彼が「うっ」と小さく呻いた。

「どうしよう、何か冷やすもの……水と手拭いを誰かに……」

 でもこんな時間ではもう皆寝てしまっているだろう。桶と手拭いくらいなら私でも自力で探し出せるだろうか。ひとまず彼を部屋に運んで、きちんと灯りの近くで打った箇所の様子を診て――

「そうだ、お医者さん! 彼を今連れてきますから!」

 そう言って立ち上がろうとすると、三成さんが私の手を掴む。引き止めるような仕草に、思わず動きを止める。

「三成さん?」

 呼びかけても返事がない。
 もしかして痛みがひどいんじゃないかと思い至って、慌てて座り直して彼の顔を覗き込む。

「く……」

 最初はまた彼が痛みに呻いたのだと思った。
 俯いた彼の表情はよく見えない。けれども肩が小刻みに揺れている。そこで彼の口から漏れる息は痛みからではないことにやっと気が付いた。

「……三成さん、今笑ったでしょう」
「お前があまりにも必死な顔をするから」

 顔を上げた彼の表情は予想通り、笑いを堪えているものだった。それでも隠しきれずに口角が上がっている。

「ひどい! 本気で心配したんですよ!」
「悪かった」

 もしかしてひどい怪我をさせてしまったのではないかと気が気でなかったのに。私が勝手に悪い方へ悪い方へ想像してしまっていただけだというのも分かっていたが、それでも黙っていた彼を恨めしく睨みつける。何ともないならもっと早く言ってくれれば良かったのに。

「だが、お前に心配されるのは心地良かった」

 そう言って彼は笑って、私の頭をぽんぽんと撫でた。その微笑みすらも意地の悪いもののように見えてしまって、私は益々悔しくなってしまう。

「〜〜っ! 鬼! 悪魔!」
「鬼でも悪魔でも結構」

 私がぽかりと軽く胸を叩いたって彼は涼しい顔をしている。
 転んで彼の上に乗ってしまったり、怪我をさせてしまったのではとひどく狼狽えたり、今日は彼にみっともないところばかり見せてしまっている。今ばかりは宵闇が赤面した顔を隠してくれているのがありがたかった。
 いつも、彼に口で勝てた試しなんてない。

「しかし聞いていたよりも元気そうだな」

 その言葉に私は言おうと思っていたことをすっかり忘れてぽかんと口を開けた。
 よくよく考えればこんな時間にこんな私の部屋の近くに彼がいること自体が珍しい。

「三成さん、私が元気ないって聞いたからこんなところにいたんですか?」

 ひどい自惚れだと笑われてもいい。確かめずにはいられなかった。
 そういうわけではない、ただの偶然だと言ってくれれば良かった。

「でなければ、こんな夜遅い時間に訪ねたりはしない」
「そうだとしてもこんな時間に訪ねたりしないでください」
「悪かったな。もっと早く来たかったんだが中々時間が取れなくてな」
「そうじゃなくって……!」

 いつもは私の言葉を先回りする彼が、今日だけはなぜか分かってくれない。それがさらにもどかしい。

「そんなに忙しいなら私のことなんてもっともっと後回しでいいんですよ!」

 彼がひどく忙しいことくらい私だって知っている。彼にはひっきりなしに人が来ていて、書くべき書状は山のようにあって、彼が会いに行かなきゃいけない人も沢山いて、例え近くにいたって私と顔を合わせる時間なんてないことは分かっていた。
 私に会いにくるくらいなら彼は体を休めるべきで、もっと他にやることがあるはずなのに。

「そうだな。だからこれは俺の勝手だ」

 さっき三成さんは心配されたのが心地良かったなんて言っていたけれど、そんなの嘘だ。私の胸のあたりは先ほどからぎゅうぎゅうと痛んでいる。心配されるのは苦しい。

 私の元気がない様子が彼にまで伝わってしまうだなんて、こんなことになるのならもっと明るく元気良く振る舞えば良かった。
 別に体調が悪いとかそんなことはなくて、彼に会えない日々が続くのがほんのちょっとだけ、寂しいと思ってしまっただけで。これは私のわがままだということも理解している。

「もっと顔をよく見せてくれ」

 そう言って彼の手のひらが私の頬を包む。
 心配されるのは、やさしくされるのは、こんなにも心の奥底がざわざわして落ち着かない。
 自分が彼の顔を掴んだときは何とも思わなかったのに、彼にこうして触れられると息の仕方まで忘れてしまう。

「みつ、なりさん……」

 まっすぐにこちらを見つめる彼の瞳に、目が逸らせなくなる。
 思わず彼の袖を掴んだ。それが彼を止めるためのものだったのか、彼が離れないようにするためだったのか、もうそれすらも分からなくなってしまっていた。

2020.07.12