明智の姫様は最近よく羽柴の邸を訪れる。

「半兵衛殿はいらっしゃいますか?」

そう言って彼女は美しく微笑む。その笑顔はとても綺麗で、まるで上品な花のようだと思う。しかも、明智の姫様はお美しいだけでなく、私たちにもとても丁寧に接してくださる。お優しい心を持った素敵な姫様だ。秀吉様も信長様も気に掛けるというのも道理だ。そんな姫様の羽柴邸来訪が嬉しくないのはきっと邸中でも私だけなのだろう。

姫様は官兵衛様ではなく、竹中半兵衛様を訪ねていらっしゃるものだから私はとても複雑な気持ちになる。

「えっと……、他の者にちょっと聞いて参りますね。しばらくお待ちください」

桔梗姫様から逃げるように踵を返して、羽柴邸の中へ。その辺の適当な女房を捕まえて姫様の来訪をお知らせした。半兵衛様は在室らしく、すぐに取り次いでくれるとのことだった。それに安心して私はさっさと奥へ隠れる。間違っても半兵衛様と姫様のふたりと鉢合わせることのないように。

私が姫様を避けている理由はひとえに私の主、黒田官兵衛様にある。官兵衛様は明智の姫様を恋い慕っているけれども、私は官兵衛様を慕っているからだ。

もしも、姫様が官兵衛様のことを想ってくだされば、私は諦め切れたのに。あんな素敵な姫様に私なんかが敵うはずがない。官兵衛様があんなに熱烈に慕うのも仕方がない、と。

「あ、官兵衛様っ!」
「……」

見慣れた後ろ姿を見つけて駆け寄る私の声に官兵衛様が振り向く。深い色の瞳に私が映る。そもそも、ただの部下である私が官兵衛様とどうこうなるはずもなく、明智の姫様がいらっしゃる前から諦めかけていた恋だった。けれども、明智の姫様は官兵衛様ではなく半兵衛様を訪ねてこの邸にやってくるものだから、私は官兵衛様の翳った表情をどうにかしたくなってしまう。

「官兵衛様、これから秀吉様のところへ伺おうと思っているのですが官兵衛様もご一緒にいかがですか? 信長様ご贔屓だというお店のお茶菓子もあるんですよ」
「……いや、結構だ」

それだけ言うと官兵衛様は踵を返そうとしてしまう。とっさにその肘を掴んで引き止める。

「あのっ!」

ここで引き下がるわけにはいかない。そっちは半兵衛様の自室がある。もうすでに姫様が通されているかもしれない。もし官兵衛様が半兵衛様に会いにいくつもりなら、鉢合わせてしまうかも。

「実はその菓子を買ってきたのは私でして、よろしければ官兵衛様にも召し上がっていただきたいと!」
「……それならば、なおさらお前が食べるといい」

どうにかこうにか官兵衛様に元気を出してほしくて策を弄するのだけれど、どうも上手くいかない。そもそも官兵衛様はあまり感情を表情に出さないので、落ち込んでいるのかどうかも分かりづらい。でも、傷付いていないはずがないと思う。半兵衛様の隣で微笑む明智の姫様を見て、何も思わないはずが――。

「よ、余計なお世話かもしれませんが、官兵衛様は最近元気がないようにお見受けします。おいしいものを食べて少しでも気分が晴れればと――」

官兵衛様の表情は変わらない。それでも大抵は官兵衛様が何を言いたいのか分かるのだけれど、ずっと近くでお仕えしていてもたまに官兵衛様の考えが読み取れないときがある。今がそれだ。

「晴れればと……」

つい声が小さくなっていってしまう。本当に余計なお世話だ。主に対して何様のつもりだ。こういうときはそっとしておくべきではないのか。何をすれば官兵衛様が元気を出してくれるのか、何をすれば官兵衛様が喜んでくださるのか分からない。

「出過ぎた真似をいたしました……。申し訳ありません」

何かして差し上げたいのに。

「失礼します!」

そう言って、官兵衛様の前から逃げ出そうとした瞬間、右の手首を掴まれた。

「か、官兵衛様っ!」

突然のことに驚いて声を上げるも、官兵衛様は答えない。私の右手を掴んだまま。まさか引き止められるとは思わなくて、私の心臓は煩く鳴る。

「あの、官兵衛様?」
「……お前の足元に、石が」
「あ、ありがとうございます?」

やっと返事をもらえたと思えば、石? この石がどうしたというのだろう。確かに道に転がっているにしては少し大きめだけれど、もしかして――

「私、転びませんよ?」
「……分からない。お前は抜けているところがあるからな」

そう言って官兵衛様が表情を緩める。あ、久しぶりに官兵衛様の笑った顔を見たような気がする。その顔を見られたのが嬉しくて、私の口元もついだらしなく緩んでしまった。

「ひどいです! そこまで間抜けではありません!」

官兵衛様はよく分からないところで過保護だ。私とそんなに年は変わらないはずなのに。私どころか、官兵衛様より年上であるはずの半兵衛様にまでその気があるのだ。

「やっとお前らしくなった、な」
「私らしく、とは?」
「……ここのところ浮かない様子で城内を歩いていた」

官兵衛様に悟られていたなんて思いもよらず、ぽかんと口を開けてしまう。そんなに顔に出ていたのだろうか。他の誰にも指摘されなかったのに。

「あ、もしかしてそれで菓子は私が食べろと?」
「ああ」

拒絶されたわけではないと知って安堵する。きっと石についても、私の様子がいつもと違うから気を遣ってくださったのだろう。

「私、官兵衛様が私を心配してくださるなんて思いもよらず……」
「……俺だって心配くらい、する」

じわりじわりと、その言葉が染み込む。

「心配、してくださいますか」
「……ああ」
「心に掛けてくださいますか」
「勿論」

その言葉がひどく嬉しい。本当は私が官兵衛様を喜ばせたいのに、私ばかりが与えられてばかりだ。先ほどまでのどこか沈んだ気持ちが消えて、代わりに同じ場所がぽかぽかとあたたかくなる。

「あ、ありがとうございます……」

官兵衛様に与えられた沢山のものをどうしたら返せるのだろう。官兵衛様のお役に立ちたい、官兵衛様に尽くしたい。そればかりを思う。

「あの、官兵衛様、そろそろ手を離していただいても?」
「……もう転ばないというのなら」
「転んでいません!」

官兵衛様の手が離れていく。それを少し名残惜しく思いながらも、私は満ち足りた気持ちだった。

「官兵衛様、菓子は沢山買ってきておりますから一緒に参りましょう」

彼のために私が出来ることならどんな小さなことでも、何でもして差し上げたいのだ。

2014.04.13