夕陽の照らす庭にそっと下りてみる。涼しくなった風がそっと頬を撫でる。庭の隅に人の姿があった。髪や衣が風になびいて影の形を変えていた。東の空はもう暗くなってきていて、一番星が輝いている。彼はそれを見るかのように上を向いていた。何を見ているのだろう、と思った。彼と同じものを見ようとして私もその方向を見上げるけれど、ただ橙と濃紺の空が広がっているだけだった。

「景時さん、」

と小さく呼ぶ。囁くような音量のその言葉はさわさわと風に揺れる木々の音に遮られ、絶対に届かないことを知りながら。話しかけてしまったら彼がどこかへ言ってしまいそうな気がした。それでも私は彼の声が聞きたくて一歩ずつ近づいていく。

「景時さん、こんなところで一体何をやってるんですか?」

後ろから声を掛けると彼は振り返って、私と視線が交差した。私の姿を認識して「…ちゃん、」と私の名前を呟く。擦れ気味のその声を聞いて私の心臓は大きく飛び跳ねた。彼に名前を呼ばれるたびに、胸が高鳴って、世界がきらきらして見えるような気がする。まるで魔法みたいだと思う。どうかもう一度魔法をかけて。名前を何度でも呼んでほしいと願ってしまう。

「ああ、えっとね、花に水をやっていたんだ」

そう言って彼の示す方向へ目をやると、なるほど花壇の隅の土が濡れていた。他の草花からは少し外れたところに生えている花。丁寧に手入れされたこの庭には少し不釣合いだった。

「実はこの花雑草みたいなんだけどさ、譲くんに頼んでこのひとつだけ抜かないでおいてもらったんだ」
「どうしてそんなことを?」
「小さいのに一生懸命咲いててかわいいなって思って」

白と紫の花をやさしい目で見つめながら彼は言う。なんだかその花が羨ましくて仕方なくなる。雑草なのに景時さんに目をかけてもらえて良かったね、ちゃんと育つんだよ、なんて心の中で花に声を掛けてみる。当然返事はなかった。

「本当、かわいいですね」
「でしょう?ちゃんなら気に入ってくれると思ったよ」

と言って彼は私に笑顔を向けた。きらきらと眩しくて私は目を細める。ああ、もう二度と魔法が解けなければいいのに。彼が私を呼んで、私に微笑みかけてくれるのならば他にはもう何もいらないのに。ずっと彼の目に私が映っていればいい。ずっと私の目に彼の笑顔が映っていればいい。

「そろそろ日が完全に落ちるね。冷える前に入ろうか」

先に歩き出す彼の背中を見つめる。置いていかないで。もしも、彼のその右手が私の手を掴んで引っ張り上げるようにして歩いてくれたのなら、私はこんなに焦がれることはなかったのに。どうして、私はいつもこう受身なのだろう。求めるだけでなくて、自分で行動すればいい。そう分かっているはずなのに何もしない自分がいる。彼に笑ってほしいのなら、努力をするべきだ。あの花は一生懸命咲いていたから彼の目に留まった。置いていかれたくないのなら、追いかければいい。大きく息を吸い込む。地面を大きく蹴って、彼の名前を呼ぶ。

「景時さん、待ってください」

彼の横へ並ぶと世界がいつもとは違って見えた。東の空はもう宵闇に包まれていて星がちかちかと瞬いていた。

「どうしたの、ちゃん」

もしも、私があなたの右手を両の手で掴んだのなら、彼はいったいどんな表情をするのでしょう。私は隣の彼を見上げて「何でもないです」とだけ言った。後ろで花が風に揺れる音が聞こえたような気がした。

庭の隅の花