彼の姿が見えたとき、このあとどう動こうか少しだけ躊躇った。躊躇ったけれども、私はそちらへ小走りで駆け寄っていて、迷う必要なんてひとつもなかったように思われた。だって、どんなに長く時間をかけて悩んでも、結局はきっと、どうしても同じ答えに行き着くのだから。

「何をしているんですか?」
「ああ、ちゃんか。何か用でもあったかな?」
「いえ、特に用事があった訳ではなくて」

たまたま景時さんの姿が見えたから、といったことをもごもごと伝わるか伝わらないかぐらいの声量で言う。これではきちんと伝わらないと分かっているのに、それでも中途半端に言おうとするのは私の気持ちを知ってほしいからか。それとも、やはりはっきり言わないのは知ってほしくないと思っているからか。私はどっちつかずで、中途半端だ。

「今日は天気がいいもんね、散歩したくなるよね」

私の言った言葉をどうやったか、散歩しているの意味に取ったらしい。やはり私は訂正することなく、「はい」と答える。要するに私は彼と会話するきっかけがあれば何でも良かったのだ。話題があればそれだけで。こうして彼と楽しくお喋りが出来るのなら、私がここに来た理由を例え彼が誤解したって構わないのだ。

「景時さんは、お洗濯ですか」
「この陽気ならすぐ乾くからね」

見れば分かることをわざわざ聞く。すでに使い古された台詞だった。「やっぱり晴れの日はいいね」と言いながら洗濯物の皺を伸ばす彼を見て、隣に並ぶ。手伝いましょうかと申し出ようとしたが、彼の持っているもので最後のようだったから口をつぐむ。もう少し、お喋りできたらいいのに。景時さんはやはり忙しいのだろうか。その願いは贅沢だろうか。少しの時間でも、こうして喋れて、隣にいられるだけで幸せだと思うべきなのかもしれない。実際、その通りだったのだから。

「何かいいものでも見つけた?なんだか嬉しそうだ」
「え?」

そんな風に見えてしまっただろうか。嬉しく思っていることは否定出来ない。こんなに鼓動が激しいのが彼に見抜かれないのが不思議なくらいだ。

「そんな風に、見えるでしょうか」
「うん。何があったか知らないけれど、ちゃんのそんな顔を見ているとこっちまで嬉しくなるな」

彼はにこにこと笑いながら言う。すると私の顔もさらに綻んでしまうのだ。ならば、私はずっと笑っていたいと思う。いつでも笑顔を絶やさないようにしよう。少なくとも彼の前では。もっとも、そんな風に意識しなくたって今までも彼の前では自然と嬉しそうな顔になってしまっていた。それは私がただいるだけで良いということだ。

「やっぱり女の子の笑顔はいいよね」

刹那、きゅうと胸が締め付けられた。何かが私を切なくした。私は笑顔を保てなくなった。おかしいな、今まではこんなことなかったのに。景時さんが目の前にいるのに無性に泣きたくなるなんて。理由はすぐ分かった。彼が一瞬遠くを見るような目をしたからだ。彼が切ない顔をしたから私にまで移ってしまったのだ。泣きそうになったのは本当に一瞬のことだった。私は慌てて笑顔を作る。そうしたら、彼もまたいつもの笑顔に戻ってくれる気がしたから。あなたがそんな顔をしながら思い浮かべるひとは一体誰ですか。

「君を、そんな幸せそうな笑顔にするものはなんだろうね」

景時さんがふわりと言葉を放った。それは、あなたです。本当に言いたいことは言えない。言えないけれど、彼が私に微笑みかけてくれるのならそれだけで。今は、それだけで胸がいっぱいになって満たされるの。

「そうだ、今日は朔が買ってきたおいしいお菓子があるんだよ。ちゃんも一緒にどうかな?」

すでに彼の声色はいつもの明るいものに戻っていた。やっぱり先ほどのは私の気のせいだったのかもしれない。私は彼の誘いにたっぷり時間をかけて「はい、」とだけ答えて、「じゃあ決まりだね」と歩き始めた彼の半歩後ろを俯きながらついていった。もう少しだけ上手く喋れたらいいのにと思った。



090705//か子