練習が終わったあと、早足で駆ける。もうすっかり慣れてしまった星奏学院の正門をくぐり、妖精の像の横を通り抜ける。赤いチェックのスカートが翻る。好きな人に会いたい、その思いが急いて足取りはどんどん軽くなる。その勢いのまま私は音楽室のドアを開けた。

「こんにちは! 水嶋悠人くんはいますか?!」
「今日は練習が早く終わったからもうここにハルはいないけど」
「そうですか……」
「でもまだ森の広場とかで練習してるんじゃないかなぁ」
「本当ですか?! ありがとうございます!」

他校生である私が音楽室のドアを開けてももう驚かれなくなった。同じ神南高校管弦楽部の先輩である東金部長と土岐副部長が私以上に目立つ行動をするものだからそれよりはマシと思われているのかもしれない。派手なふたりの影に隠れてあれこれ好き勝手出来るところは先輩様様だと思う。星奏学院オーケストラ部の面々ともすっかり顔なじみになって、特に悠人くんの友人である小ノ澤くんと但野くんとはすれ違えば挨拶する仲である。私の言葉に答えてくれたふたりにお礼を言って踵を返した。

  ☆

助言に従って森の広場に行くと――いた。

木々の間の日陰になるところで悠人くんがチェロを弾いていた。彼が森の広場にいるのは珍しいなと思いながら近付く。

「はる……」

彼の音が途切れたところで声を掛けようとして、やめた。あの表情は納得がいかないときのものだ。あと数回、満足が行く出来になるまで弾くのだろう。しばらく楽譜とにらめっこして考え込んだあと、悠人くんは再び弓を構え直した。

私は近くのベンチに座って彼の音を聴くことにした。悠人くんはひとつひとつの音を丁寧に弾いていく。音は奏者を表すとはよく言ったものだ。悠人くんの音楽は私の音楽とは違う。私はどうしても苦手なところを誤魔化して弾く癖があって、練習もつい自分の好きな曲ばかり弾いてしまう。東金部長には苦手なことから逃げてるからダメなんだと指摘されたこともある。一箇所を納得いくまで弾き込む悠人くんの姿勢は、私がまだ手に入れられていないもので、見習わなくてはと思う。

チェロの音色が止まった。先ほどの演奏は音の響きがとても良かったからこの部分の練習はもう終わったのだろう。顔を上げると悠人くんと目が合った。悠人くんの練習の邪魔にならないようにと、彼の背中側の、少し離れたベンチに座っていたのでまさか彼が振り返って私に気付くなんて思ってもみなかった。気付かれてしまったのなら仕方ないと彼の元へ駆け寄る。

さん、こんなところで何をしているんですか?」
「悠人くんに会いに」

にっこり笑って答える。上手く、かわいく笑えてるだろうか。だらしなく口元が緩んでいたり、逆に引きつっていたりしないだろうかとそればかりが気になってしまう。この間は鏡の前で笑顔の練習をしているところを土岐副部長に見つかって笑われた。

「あなたはそればかりですね。僕をからかっているのか何なのか、他にやることがあるでしょうに」

呆れた声で悠人くんは言う。私の言葉を悠人くんは冗談だと思っている。本当のことなのに。初めは私が訪ねてくることを友達にからかわれて真っ赤になっていたのに、もう慣れたのかそんなこともなく平然としている。

「わざわざ僕を探しに来なくったっていつもの時間になれば音楽室に戻ってあなたを待つつもりでした。それより僕を探す時間があるのならあなたは練習を……」

彼の言葉の続きは耳に入ってこなかった。悠人くんが私を待ってくれるなんて思わなかった。最初のうちは私が時間を忘れて練習してたせいで少し来るのが遅れてしまうともう悠人くんは帰ってしまったあと、ということが何度もあった。待つつもりだったというのは彼の律儀な性格ゆえか、それとも。

「今日は来るのが少し早かったようですが何かあったんですか?」
「……悠人くんに早く会いたくて」
「それはもういいです」

本当のことなのにな。思いながらも曖昧な笑みで誤魔化す。悠人くんはテキパキとチェロと楽譜を片付けていく。もうちょっとゆっくり片付けて私とお喋りしてくれないかな。練習が終わってから、学院の正門を出る前までではあまりにも短い。彼に会う前まではあれを話そうこれも話そうと考えていても、結局話きれないことが多い。

もうちょっとでいいから一緒にいたい。

これから喫茶店に誘うのは不自然だろうか。楽譜を見に行きたいという口実はこの間使ってしまったからダメ? 今日はどこかでコンサートはなかったかな。必死で頭を巡らせていると、突然悠人くんが顔を上げた。ドキリとしたけれども、どうやら片付けが終わったところだったらしい。口実を思いつかなければ今日一緒にいられるのはあと少し――

「そういえば今日コンビニで新商品のオレンジのチョコが売っててね」
「またそうやって買い食いばかりして……。夕飯が入らなくなりますよ」
「ちょっとだけだから大丈夫だよ。悠人くんも食べる?」
「結構です」

そっかぁと笑いながら私は鞄から出しかけたお菓子をしまう。悠人くんはつれない。睦先輩よりも真面目でずっとお堅い。そういうところもいいけれども、少し淋しいと感じるときもある。同い年なのに私に対してもまだ敬語だ。もっと友達といるときみたいに私に対しても砕けた態度を取ってくれたらなぁ、と。そうしてるうちに悠人くんはチェロをしまい終えて立ち上がる。

「そろそろ日が暮れるので送ります」
「えっ、悪いよ! まだ六時だし、日沈んでないし、門限までだって時間ある、し……」

夏の陽は長い。少しずつ日が短くなったと言っても、六時過ぎでもまだあたりは明るいオレンジ色だし、ここから菩提樹寮は近し、そんな心配を掛けるようなことは何もない。そんな風に反射的に断ってしまってから悠人くんの言葉がじわじわと遅れて脳みそに入ってくる。悠人くんが、送ってくれる……?

「あの、やっぱり送ってもらってもいいですか……?」
「どうしたんですか? やはり何か不安なことでも」
「送ってもらえばその分長く悠人くんと一緒にいられるなぁと思って……」
「なっ!?」

私が思ってることを素直に口に出すと大抵悠人くんは驚く。私の頭の中は悠人くんでいっぱいなのだと、彼はいつになったら分かってくれるだろうか。

「あなたという人は……」
「やっぱりダメ?」
「……いえ、元は僕から言い出したことですから。菩提樹寮まで送ります」
「やったー!」
「引っ張らないでください!」

悠人くんの腕を取ると、「どうしてあなたはそう落ち着きがないんですか!」と怒られる。それでも私にとって悠人くんから誘ってくれたということはものすごく特別なことなのだ。だって、今までそんなこと、一度もなかった。

「悠人くんありがとう。大好きっ」

悠人くんを知る度に好きになる。初めて会ったときから好きだと思ったけれども、今はその頃よりもずっとずっと思いは強くなっている。悠人くんのここが好き。そういうところが好き。いくつもの好きが積み重なっていく。

「あなたは本当にそればかりだ」

髪を耳に掛けながら悠人くんは言う。悠人くんの言うことは事実で、私はいつも『それ』ばかりを考えている。練習をしている最中のふとした瞬間だとか、ここへ来る途中の道だとか、帰り道だとか、寝る前だとか。今も。

「置いていきますよ」

悠人くんの隣を歩く。そのことが私にとって特別で、とても嬉しいことなのだと伝えたら、悠人くんは今度はどんな表情をするだろうか。

「明日もまた送ってほしいな〜」

少し調子に乗ったことを口にしてみる。多分断られるだろう。きっと、何を調子に乗っているんですか、とか言われておしまいになる。送ってもらう理由が変質者が出るとかそういうわけではなく、ただの私のわがままだということがもうすでにバレてしまっているから。

「……菩提樹寮までは近いので僕は構いませんが」
「うそっ?!」
「何を驚いているんですか。あなたが言い出したんでしょう」

予想外の、しかも嬉しい返事をもらえて驚かないわけがなかった。悠人くんとしては菩提樹寮は近いし、私が毎日やってくる以上大した手間ではないと思っているのだろう。それでも一緒に帰るということは私にとって特別な意味を持っている。自然とにやける口元を隠すように両手で覆って歩く。どうしよう、すごくすごく嬉しい。

「あなたは本当に分からないな……」

そう言って悠人くんはまた髪を耳に掛け直す。悠人くんが私のことを理解してくれる日が早く来るといい。

2014.05.04