私は正面に座っている人物をちらりと盗み見た。俯いてシャーペンを机の上に置いたノートにカリカリと走らせるハルは時折落ちてくる髪を耳にかけ直しながらも顔を上げることはしない。目を伏せていると長い睫毛がより一層目立つ。ハルの大きめの瞳がノートの端から端まで視線を移動しているのを見ながら、私はたまにはこっちを向いてくれないかなぁと考える。今顔を上げられたら困るくせに。

「やる気がないのなら僕は帰るぞ」

ドキリと心臓が止まるかと思った。ハルは私の心が読めるのか、それとも私の気付かないうちにこちらを見ていたのかと驚いた。

「さっきから一問も解いていないじゃないか。手も止まってる」

なんてことはない、私が手をこれっぽっちも動かしてないことは見なくたって音で分かるのだ。溜め息混じりにそう言うとハルはことりとシャーペンを置き、やっと視線を上げた。正面からバッチリ視線が合う。ハルは当然のように視線を外そうとしない。その理由がないからだ。それと反対に私はハルに見つめられることに堪えられなくてすぐに視線を落とす。

「だって、分からないんだもん」
「解く気がないだけじゃないか?」

そうハルは私に呆れた表情を向ける。そう思われるのもごもっともで、そもそも最初から私に勉強する気はこれっぽっちもなかった。ただハルが「勉強をしなくちゃいけない」と言うから、ならば私もと言えば一緒にいれると思っただけなのだ。渋る表情を見せようとしたハルだったが私は強引に勉強道具を取り出したのだ。私は普段勉強したがる人間ではないので、きっと不審に思ったことだろう。当然こんな数字と記号の羅列など好んで見たいものではないのだ。

「仕方ないな」

ハルが溜息を吐いて腰を浮かせた。それに私は慌てる。その辺に投げ出したシャーペンを握りなおして、教科書をきっちり開いて、隅っこに書いた落書きを消そうと消しゴムを目で探す。私のやる気がないから本当にハルが帰ってしまうのかと思った。

「どこが分からないんだ?僕が分かるところなら解説してやるから」

そう言ってハルは身を乗り出して私の教科書を覗き込む。はらりとハルの髪が落ちた。急に縮まった距離に私は驚いて身を固くするがハルは全く意識した様子がない。ハルは時々こういうことをする。きっとハルにとって私は異性ではなくただの幼なじみなのだろう。ドキドキしているのは私だけだと分かっているのに。

「ん、どうした?」

身を強ばらせて黙ってしまった私に気が付いたのだろう、ハルが視線を上げる。顔が近い。近すぎて私は身じろぎひとつ出来ないのに。

「さっきから変だぞ」

そう言ってハルは顔を上げてしまう。その瞳で、この距離で私と目を合わせないでほしい。

「何でもない、」

と私は嘘を吐く。もしもここで『ハルの顔が近いから』と言ったのならハルはどんな反応を示すだろう。顔を赤らめて慌てて退いたりするだろうか。それとも『何バカなことを言ってるんだ』と一蹴されてしまうだろうか。きっとハルは何とも思っていないのだろう。しかし無自覚でこんなことをされたのでは私の心臓が保たない。私はもうハルのこと幼なじみだと思ってないんだってば。

「もしかして勉強しすぎでおかしくなったのか」

ハルの手のひらが私の頭に乗って軽くくしゃりと撫でられる。このままでは本当に頭がおかしくなってしまうと思った。もしかしたらもうおかしくなっているのかもしれない。

に限ってそんなわけないか」

そもそも全然プリント進んでないしな、と屈託ない笑顔を私に向ける。眩しすぎる。やはり私はもうハルを直視出来ない。俯いて、きっと顔赤くなってるだろうなぁと考える。そんな私の様子にハルは気付くだろうか。気付いてほしいのか気付いてほしくないのか分からない。もし気付いたとしても暑いからと言い訳をすればハルは納得してしまうような気がした。

「ひっどい」

私はうまくない笑いを浮かべて至極軽い調子を装って言う。問題が全く進まないのは私の頭が良くないせいもあるけれども、大部分はハルのせいなのに。正面に座るハルが気になって仕方ないからなのに。ほとんど八つ当たりのようにそう思う。やっとハルが身を引いたのをきっかけに私も顔を上げる。多少赤くたって誤魔化せるだろうと楽観的に考えて。

「ハル、ここ分かんない」
「ああ、これならこの間授業でやったばかりだな」

「これはこうやって」とハルが再び私と同じプリントを覗き込む。落ちてくる前髪を押さえるハルの左手を見て、私のプリントに書き込みを加える右手を見て、最後に私は自分がプリントの端に書いた落書きに目を落とす。小さなハートマーク。ああ、もう早くハルがこの落書きに気付いてくれたらいいのに。


ハートマークをひとつ