稽古を早めに切り上げて、暑すぎるので縁側で涼んでいるとペタペタと素足が廊下を歩く音がした。ごろんと上半身を倒してそちらを見るとハルが呆れたような表情で立っていた。「あー、ハルだー」と私が気の抜けた声を出すとハルの不機嫌そうな顔がますますひどくなる。ハルは丁度稽古が終わったところなのだろうか、タオルでしきりに汗を拭っている。

「ハルー、次はいつ道場来るの?」
「今はコンクールに向けて忙しいからしばらくは来れない」

私が足をぶらぶらさせて寝転がりながら尋ねると「はしたないぞ」と一言小言をいいながらハルは隣に座った。

「コンクールの練習っていつまでするの?」
「全国大会は26日」
「まだまだ先じゃん」

私はべたべたと背中に張り付くシャツが不快でゴロンと寝返りを打つ。丁度風が吹いて背中が涼しくなった。

「夏休みの終わりなんてまだまだ先じゃん」

私はもう一度不機嫌そうな声で繰り返した。ハルも私のそんな態度に愛想を尽かしたのか眉を寄せ、「そんなこと言ったって仕方ないだろ」と少し怒気を含ませた声で言う。

「ハルなんて但野に負けちゃえ」
「確かにあいつは最近腕を上げて来てるからうかうかしてられないな」
「但野どころか私にまで負けちゃえ」
「さすがにそれはない」

間髪入れずに否定する。確かに私はハルに勝てずにいる。小学生の頃ハルと私の実力は五分五分、むしろ私の方が強いくらいだったのに、いつからかハルが勝ち越すことが多くなって、今ではもう全く敵わない。それどころかハルは私と手合わせしてくれることすら少なくなった。それはハルが星奏に入ってチェロの練習に忙しくてそもそも道場に来る機会が今まで以上に減ったことも関係しているが、来たって但野たちとばかりで私の相手はしてくれない。

「…ハルが来ないとつまんない」
「そんなこと言ったって仕方ないだろ。チェロを練習しないわけにはいかないんだから」

ハルの口から出るのはすぐチェロのことだ。その言葉を聞くと私の眉間のしわはますます深くなる。

もコンクール見に来れば?」
「嫌だ。音楽なんて分かんないもん」

私には繊細さが足りないのだとハルはよく言う。むかつくけれども、まぁ当たっていると思う。どうせコンクールに行ったって『皆上手いな』以上の感想なんて持てないに決まってる。どこが良かっただのハーモニーがどうだのなんてこれっぽっちも分からない。

音楽なんて大嫌いだ。特にチェロなんて。私からハルを奪ってしまった。昔はハルも剣道に夢中だった時期もあったのに、いつの間にかチェロ一筋になってしまった。ハルがチェロの才能があるのは分かってる。あのやわらかくて心地良い音を聞いていると心が和む。ああ、チェロなんて、と言いながらも私はハルの弾くチェロの音を嫌いになりきれないのだ。

「…でもハルの音は聞きたい、かも」

ただひとつ分かるのはハルのチェロの音は好きだってことだけだ。もう重症だ。昔は私のためだけにチェロを弾いてくれたのに、なんて考えてる私は何なんだ。なんて恥ずかしいことを言ってしまったんだ、と半ば後悔しながらハルの様子を窺うと、ふわりと微笑んでいた。いつもはきつい口調のくせに。こうやって微笑むと本当に美少年だから困る。

「じゃあ、今日はここで練習するか」

そう言ってハルが立ち上がる。「はぁ?」と驚いて起き上がるとハルとばっちり目が合ってしまった。

が拗ねるから」

と何故か楽しそうに笑う。いつもは人の機微に疎いくせに、こういうときばかり無駄に物分りが良い。

「拗ねてなんかないもん」

そういう私の言葉は逆にひどく子どもっぽく響いてしまう。完全に拗ねた声だ。ハルが私のこの態度をどう思っただろうと考えるとドキドキとして胸が詰まって呼吸まで忘れてしまいそうになる。私はそれがひどく嫌なのだけれど、最後にはハルが笑うからまぁいいか、と思ってしまう。またごろんと横になると機嫌を良くしたハルがチェロを取りに行く軽快な足音が聞こえた。

酸素ボンベで息をする