彼を街の人混みから見つけるときはその部分だけぱっと光が差したような気がするのだ。

「あっ、ダリウ……」

視界の端、通りの向こうに見慣れた金色と外套を見つけて何も考えずに呼び止めようと思って弾んでいた私の声は、彼の名前を呼ぶ途中で細くなって消えてしまった。

彼の隣にはかわいらしい女の子がいたからだ。

――ずきりと鈍く心臓が痛んだ。本当はもうこんな光景も見慣れてるはずだ。ダリウスの横にどこぞの令嬢が並んで歩いているところは何度か目にしたことがある。この帝都でも、その前も、何回も。今さら特別珍しい光景でもないのだ。今日彼の隣を歩いている女の子は初めて見る顔だというのも、彼女が時折おかしそうに肩を揺らしてころころと笑い、彼もそれをどこかやさしい眼差しで見ているように思えるのも、全部全部考えないことにした。この鈍い痛みもいつものように数分後には感じなくなるだろう。

実際、ダリウスはそういうお嬢さんを本当に利用していることもあるのだ。

甘い言葉や仕草でお嬢さんを夢中にさせて、父親に口添えするよう仕向けさせたり、反対に、彼女たちが夢を見すぎないようさりげなく現実へ覚めるように振る舞っている。ダリウスはそういう男だということを私はよく知っている。

彼らは私に気付くことはないまま過ぎ去った。見られては気まずいだけだというのは分かっていたが、私は彼を見つけ出したのに、その逆はないのだということに私の心は勝手に傷付く。ひどく現実を突きつけられたような気分を振り払うように、私も彼らを見なかったことにして歩き出す。今日、外へ出た当初の目的の買い物はもう済んでいたのだけれど、なんとなくこのまま邸に帰る気がしなくて足を街の方へ向かわせた。

今日は特別に何か甘いものでも食べて帰ろうかしら。

そんなことを考えながら煉瓦街の華やかな通りを眺めていると、ふと洋品店の前で足が止まった。ガラスの向こうに綺麗に飾られているのはかわいらしいワンピースだった。清楚で、可憐で、ひどく女の子らしくて、さっきの女の子が来ていたのはこういう服だった。私があまり着ないタイプのものだ。いつもは見なかったことに出来るはずの先ほどの光景が、今日はやけに頭にちらつく。

やっぱりダリウスはこういう服の似合う女の子が好きなんだろうか。ふんわりとした、愛らしい女の子が。

「あなたがショーウィンドウを覗いているなんて珍しいですね」

聞き慣れた声にハッと振り向くとフードをちょっと上げてこちらを覗き込むルードハーネと目が合った。咄嗟に他に人影がないか辺りを確認したがとっさに頭に思い浮かべた人物の姿はなかった。一番見つかりたくなかった人ではなかったことに安堵するべきか。

「ルード……!」
「服はこの間新調したばかりだと思いますが、何か入り用なものでも?」
「何でもないわ、ちょっと見てただけよ。ルードの言う通りこの間買ったばかりだもの」

新しい服はそう何着も必要ない。必要な普段着は先日揃えた。普段着どころかよそ行きの服までダリウスに買ってもらった。十分すぎるほどだ。そもそも、ああいう服を着こなせるかどうかも分からないのだ。きっと私には似合わないに決まっている。

「はぁ……。これで足りますか」

言葉とともに差し出されたものに目を瞬かせているとルードが「早く受け取ってください」と急かす。思わず手を出して受け取る。自分の手の中に収まったものを改めて見たけれども、それはやっぱりお札だった。

「持ち合わせがないのでしょう?」

本当は違ったのだけれど、まさか理由を話すことも出来ない。まさかあのルードがお金を貸してくれるとは思わなかった。だって、こんな、わがまま。

「ルード、あなたまさか熱がある?」
「失礼な。……あなたが必要品以外に服を欲しがるなんて今までなかったことですからね」
「あ、ありがとう……」
「ちゃんとあなたの給料から引いておくのでご心配なく」

さすが邸のお金管理を任されているだけあって、こういうところはちゃんとしている。しかしそんなしっかりしたルードがこんな融通を利かせてくれるほど、私は夢中でショーウィンドウを見ていただろうか。自分の行動を振り返って少し顔が熱くなる。

「どういう心境の変化――なんて聞くまでもありませんね」

そう言ってルードが小さく笑う。聡いルードには私の考えていることなんて最初からお見通しだったのだろう。悔しいけれど。

「ダリウス様ならあなたが何を着てもお褒めくださると思いますよ」

年下の男の子に恋心がバレるというのは恥ずかしいものだ。

 *

結局ショーウィンドウに飾られていたあの服を、店員が試着を勧めるのも断ってそのまま買って帰ってきた。あのワンピースを身に纏った自分がどんな風なのか、怖くて、鏡すら見なかった。

袖を通すときはことさら緊張でドキドキと胸が鳴った。想像していたよりもさらりとした生地が肌を撫でる。右腕を通して、次に左腕を通す。最後に首のあたりでわだかまっていた布を下まで落とすと、ふわりとやわらかく裾が広がった。首の下にあるのは人が身に纏っているのしか見たことのないデザイン。この服の上に私の顔が乗っているなんて上手く想像出来ない。こういうのは私以外の、他の女の子のためのものだとずっと思っていた。実際、今日までは着ようとも思わなかったのだ。今度こそ部屋の隅にある鏡の前に立ってみようかとも思ったが、やめた。――こうなったら行くしかないのだ。

夕食時に階下へ降りていくと、厨房にいたルードは私の姿を見て一瞬動きを止めたが何も言わなかった。広間に入るとソファーに寝転ぶ虎の姿が目に入った。もっとも、虎は元より私の服装になど興味がない。

一歩歩くごとにひらひらと揺れる裾が目に付く。

お目当の人物は窓際で新聞を読んでいた。外から帰るときに夕刊を買ってきたのだろう。一面にざっと目を通し終わったところで、近付いてくる私の足音に気が付いてダリウスが視線を上げる。その瞳に、私の姿が映っているのがはっきりと分かった。でも、その視線を真正面から受け止めるほどの勇気はなく、思わず視線を逸らして俯く。

「その服、新しいね。今日買ってきたのかい?」

準備したきたはずなのに、ドキリと心臓が鳴る。ダリウスなら絶対に気付くのは分かっていた。そしてそれを口に出すだろうということも。ダリウスの視線が自分に注がれていることが分かってなんだかむずむずする。

もじもじと手を擦り合わせる。その行為自体がすでに私らしくない。これでは何かあると知らせているようなものだ。このままでいるわけにはいかない。そっと視線を上げると――青くて綺麗な、けれども冷たい瞳と目が合った。

「この間俺が服を買ってあげただろう。あれは気に入らなかった?」

彼の声には棘があった。ダリウスが買ってくれた服――先日買い出しに行ったときに彼の勧めで買ってもらったそれは私の好みにぴったりで、とても気に入っている。何よりもダリウスが私に贈ってくれたというのが嬉しかった。これから先、上流階級の人々と関わりを持つことになっても困らないようにという理由を察せられたにせよ。

「気に入らなかったわけじゃないけど、あまりにも上等なものだし、普段着にはちょっと」
「その服も十分気合いの入ったものに見えるけど。いつもと大分雰囲気が違う」

見透かされている。わざと雰囲気の違うものを買ってきた。気合いが入っているのもダリウスに見せるためなのだから当然だ。一番奥の、秘密の感情まで気付いてほしいと思うのと同時に、それをひどく怖がる自分がいた。

「誰か、見せたい相手でもいるのかな?」
「そういうわけじゃないけど。似合わない……?」

その問いかけに期待を込めなかったと言えば嘘になる。

「そうだね」

あまりにも、あっさり言うものだから一瞬聞き間違えたのかと思った。ダリウスは紳士で、やさしい。お世辞でも可愛いよなんて言われることを期待していたのかもしれない。こうもあっさりと似合わないと言われるとは思っていなかった。彼ならせめてもっと遠回しに伝えてきそうなものなのに、こんなにはっきり言われるなんてどれだけ似合わないのか。すぅっと頭の奥が冷えた。

「誰の趣味に合わせたんだい?」

言葉が脳みそに染み込んで理解する前に、すっとダリウスが綺麗な所作で椅子から立ち上がる。それに見惚れている間にダリウスとの距離は縮まっていて、私はダリウスのその顔を見上げる形になった。

「誰にも合わせてなんかない。私が一度着てみたかっただけ」
にそんな趣味があるなんて知らなかったな。今まで一度も言わなかっただろう。何かきっかけがあったんじゃないのかい?」

何かきっかけがあったのは事実だから何も言えなくなる。ダリウスがこういう格好をしたどこぞの令嬢と歩いているのを見て、それに嫉妬して、浅はかにも自分もそういう服を着たらダリウスは私を見てくれるんじゃないかって期待した、なんて、言えるわけがない。我ながら、なんて短絡的な思考。単純な自分の考えに、行動に、思わず笑ってしまいそうになった。

「本当に何にもないから」

自分でもびっくりするほど冷たい声が出た。私が選んだ選択肢は逃げることだった。それだけ言って、夕食なんていらないから自室に帰ろうと思った。これ以上は余計なことを言ってしまいそうだったから。

「まだ話は終わっていないよ」

――けれども、それより一瞬先に手首をダリウスに掴まれてしまった。

はっきり似合わないと言われたのにあなたのために着ましたなんてそんな惨めなこと言えるわけがない。本当のことなんて、言えるわけがないのだ。

言い訳をぐるぐると考えていると、今度はダリウスに腹が立ってきた。こういうときはお世辞でも褒めるべきなのではないか。長い付き合いで気の置けない仲とは言え、女性に対してあまりにも礼を失するのではないか。

「ル、ルードは似合うって言ってくれたもの!」

――こうして、言い返してしまうところが私の悪いところだ。こういう服を着るようなご令嬢はきっと、こんな風に言い返したりしないのだろう。そもそもが、相手の趣味に合わせた服を着てみようだとか、それを見てもらおうだとか、そんならしくないことをしようとしたのがいけなかったのかもしれない。

「なんとなくショーウィンドウを眺めていたら通りかかったルードが似合うだろうって言ってくれたから買ったの!」

『似合う』とは言っていないが賛同を示していたのだからおおよそ同じだろう。それにルードは女性の服装をけなしたりしないはずだ。ルードなら上手くやってくれる、私の中でルードに対する絶対の信頼があった。



だからルードが夕食を運んでやってきても私は慌てなかったのだ。

、まだこんなところで油を売っていたんですか。もう十分ダリウス様に褒めていただいたでしょう。早く料理を運ぶのを手伝ってください。ほら、虎も」

それなのに、こんな風にこちらから話を振る前に言われるなんて想定外だった。ダリウスが、ルードの言葉を聞き流していてくれたらいい。そう願っていたのに、おそるおそる見たダリウスの顔は目を丸くして、思いもよらなかったとでも言いたげな表情だった。気付くのが遅い。

何をやっても駄目な日というのはある。きっと、私にとって今日がそれだったのだろう。特段運命だとか占いだとかは信じていないが、そう思わなければやってられない。

居た堪れなくなって、やっぱり部屋に逃げ帰ろうとしたけれども、ダリウスに手首を掴まれたままだったことに気が付いた。

「もしかして、俺のためだったのかい?」
「……もうガラじゃない服は着ない」
「似合ってるよ」
「さっき似合わないって言ったじゃない」

よくもこう百八十度全く正反対のことを言えるものだ。先ほどと打って変わってひどく機嫌の良い声色なのも気に食わない。

「俺のあげた服を着ないで誰か知らない男のためにそんな格好をしていると思えばどんなものであれ似合わないと思ったけれども……」

ダリウスの両の手が私の右の手を掬い上げるように包む。その動作があまりにも自然で、やさしいものだったから、私は振り払うことを忘れてしまった。

「その相手が俺自身だと分かればこの上なく君が可愛く見えるよ」

言っている内容はひどく都合の良いものだと分かっているのに、『可愛い』なんて、今までダリウスから言われたことがないせいでドキドキと心臓がうるさく鳴って仕方がない。ずっとその言葉は、私のじゃない別の誰かのための言葉だと思っていた。

ダリウスの視線がじっと私に注がれているのが分かる。それにどう応えるのが正解なのか分からなくて、心を落ち着かせるためと、あまりにも先ほどとは違いすぎる言葉に呆れているというポーズのために吐いた溜め息は、少しだけ震えていた。

「都合良すぎ……」
「でも事実だから仕方ないだろう?」

ダリウスとはもう長いこと一緒にいるのに、未だに彼の真意を判断しかねることがある。これからも一緒に暮らして行く共同体として、私の機嫌を損ねたままでは厄介だから、多少のリップサービスを乗せて挽回を図っているのか、それとも、本心からの言葉なのか。

「ほら、一緒に夕食を食べよう。俺のお姫様」

ダリウスに引かれる右手の、熱ばかりが気になって仕方がない。こんな風に私をお姫様扱いしたことなんて、今まで一度だってなかったくせに。そんな恨み言は口から出る前に消えてしまった。

2017.01.31