背中を向けて君は歩き出した。

「では、弁慶さん、また」

そう彼女はにこやかに手を振って、くるりと僕に背中を向けた。それで、おしまい、と言っているような機敏な動きだった。別れの挨拶をしたあとは彼女は振り返らない。きっとそのまま歩き続けるだろう。僕がその場に立ち止まって動けないことなど知らずに。君はきっと僕も同じように背中を向けていると思っているのだろう。振り向いて。そう願いながら僕が君の背中を見つめていることなど知らずに。どうか行かないで。

背中を向けて僕は歩き出した。

ゆっくりと深呼吸をしてから僕も踵を返し、六条堀川の邸へ帰る道を歩き出す。一歩一歩踏みしめるように、彼女とは違う道を。これは決定的な別れだ。もう彼女との道が交わることなどないだろう。きっと、僕が再び京に戻ってくることはない。これは予感だ。確定した未来でも、僕の決意でもない。ただの予感だけれど僕の中でほぼ確信に近かった。もう、会えないかもしれないと彼女に告げるべきだったろうか。しかし、告げて、それでどうする。彼女はまたすぐ会えると思っているのだろう。僕が京を離れることは今までもあったから、今回も今までと同じだと思っているに違いない。でも、もう君は僕と一緒にいてはいけないから。

幸せすぎるのは嫌いだと偽った。

「弁慶、帰ってきてたのか」

邸に与えられた自室に帰ってくると九郎が顔を覗かせた。

「おや、九郎。どうかしましたか」
「いや、大した用事ではないから気にするな。外へ出ていたのか」
「ええ」
殿の、ところか」

九郎が珍しく暗い表情をして聞いてくる。何を言い出すかと思えば、そんなことを気にしていたのか。

「お前の個人的な問題に口を出すべきではないと分かっている、だが、」
「九郎、君のその気持ちは嬉しいですよ。ですが、」

強がって手放した理想の未来。

「僕はもう決めましたから」

僕は九郎、君とともにゆくと。これからまた戦が始まる。まずは三草山で。僕はそこで戦わねばならない。それには彼女は連れて行けない。戦えない彼女を戦場へ連れて行けるわけがない。そんなの分かりきっていることだ。答えは簡単に導き出せる。

「そうですね、彼女にはきっと僕よりもいい男がいますよ」
「俺にはそうは思えん」

九郎ははっきりと断言する。しかし、どう考えても少なくとも僕より彼女に相応しい男はその辺にごろごろいるに違いないと思う。僕よりも誠実で、優しい男がきっと彼女にはいるに違いない。いわゆる彼女にとっての運命の男が。

「それに弁慶、お前はそれでいいのか」 

僕は僕自身でもう決めてしまったから。僕は選んでしまった。そしてそれはもう、彼女と生きる未来は捨ててしまったということだ。いくら望んだって両方を取ることは出来ない。自分で選んだのにこれ以上僕に何か言えるだろうか。それでいいに決まっている。そうでなくてはいけないのだ。

取り戻せぬ願い。

九郎は僕の表情を見て「お前には付き合いきれん」と言ったきり出て行った。僕を捜していたんじゃないかと思ったが、大した用事ではないと言っていたのであえて追おうとはしなかった。ひとりきりになったこの部屋はいつもより広く感じられた。今までこの部屋を狭いとは思っても、広いと思ったことは一度だってなかったのに。

「彼女がもうここに来ることもない、のか」

そもそも彼女がこの部屋に来たことなど片手で数えるほどしかなかったにも関わらず、僕はそんなことを思った。いつも彼女がここにいたような錯覚を覚えた。そんなことを思うのは心の一部が欠けてしまったような痛みを覚えるせいだろうか。時が過ぎるのが以前よりもゆっくりで、時間が引き延ばされているような気がした。

君と過ごせたら、と。

そんなことを願うことすら許されない。僕が僕である以上は。だから彼女に嘘をついた。ああ、君は泣いてしまうかな。君にはどうかいつも笑っていてほしいと思うのは僕の我侭だろうか。君の泣き顔は見たくないのだ、そこまで考えて、僕にはもう見たくとも見れないことに気が付いた。それはもう僕の与り知らぬところなのだと。僕は君に近づくべきではなかったのかもしれない。君に惹かれてはいけなかった。君の手に触れてはいけなかった。僕にはずっとこうなることが予測出来たのだから。全部僕の君に対しての罪だ。僕は君の隣にいたいなど望んではいけなかった。

願うことさえ許されない世界なのかな。

きっとそれすらも罪だった。そんなことを願ってはいけなかった。慎ましやかな願いだったとしても。きっと僕のことなんて君の記憶から消えるだろう。彼女の人生はまだまだ長い。そんな中でたった一瞬愛した男のことなどそのうち忘れるに違いない。きっと心の片隅に追いやって、幸せな日常を歩むのだろう。僕のちっぽけな存在など、忘れる。

君の記憶から消える。

本当に、もう二度と戻れないのだろうか。結局僕は決心したと言っても未練がましいままだ。忘れるべきなのは僕の方ではないのかとさえ思う。でも道を決めたと同時に、彼女のことを忘れないと誓ったのだ。こんなひどい仕打ちをしておきながら、僕が安穏と生きることは許されないと。僕は戦を終わらせなければならない。それを果たすために僕は行く。

ここは始まりか、終わりか。

京の夜はまだ明けない。眠れないと思っていたがつらつらと考え事をしているうちに寝てしまったようだった。その代わりに夢を見た。彼女が隣にいる夢だった。僕がいくつもの彼女に対する“罪”を重ねてきた過去の夢。彼女はどの場面でもいつも僕の隣にいて、微笑んでいた。こんな夢を見るのは初めてだった。現実感を伴った夢を。

君の記憶を辿る夢を。

「弁慶さん、」と僕を呼ぶ声はとてもやさしくて。彼女はそっと僕の手を取って「つめたい」と言い頬を摺り寄せた。僕が手のひらで頬を撫でるように動かすと彼女は瞳をこちらへ向けた。僕は何も言わず見つめ返す。「私弁慶さんの手がすきです」と彼女は目を細めて言う。「君が好きなのは僕の手、だけですか」と問うと彼女は目を逸らして小さな声で「いじわるな人」と零した。

数え切れないほどの罪を重ねてきた。

その頬が見る見るうちに赤く染まって熱を帯びていくのが触れている左手からも伝わってきたから、それを冷やすために僕はもう片方の手も彼女の頬に添える。ずっとこうしていたいと思った。

その手に触れたこと。

彼女の体温が伝わってくるのが感じられたと思った瞬間に僕は夢から覚めた。もう右手も左手も何の熱も伝えてこなかった。ただ夜のひんやりとした空気を掴んだだけだった。ついさっきまで彼女の熱に触れていた感覚がまるで現実のようにはっきりと残っているようで、何もない手のひらを見ると僕の中にある弱い部分にチクチクと何かが刺さる痛みが感じられた。僕の手はもう何も掴まない。

君の隣でそっと生きようとしたこと。

これがきっと彼女に対する罪の痛みなのだろう。罪の償いの痛み。これが償いになるものならば、僕はこの痛みを受け入れよう。僕は自分が何者であるか理解しながらも、君を愛した。君を幸せにすることも出来ないくせに、愛してしまった。
「私しあわせです、こうしていられることが」
僕の隣にいる君がどういう想いを抱いているか知っていながらも、離れなかった。離れられなかった。僕はこの先ずっと君のことを想う。この痛みとともに生きていくから、どうか

君の記憶にそっと居させて。


君にも僕のことを忘れないでほしいと思う。本当に自分勝手な意見だと自嘲する。それでも、願いは止まない。そして、もしも。もしも、また彼女に会うことが出来たのなら。もしも、まだ彼女が僕のことを望んでくれていたのなら。そのとき僕は彼女の手を取って、もう二度と離さないから。もう一度、会えたのなら僕は、

「また、ね」

再び会うそのときまで「また」。僕は別れ際の彼女の言葉を小さく呟いた。ああ、僕は君を失える筈なかった。

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