背中から「弁慶さん、弁慶さん」と僕を呼び止める声がする。振り向くと彼女がいた。

「弁慶さん、明日市が立つんです。一緒に行きませんか」

頬を赤らめて、それを隠すように少し俯きながら彼女は言う。この横顔を一日中見ていたいと思う。

「ああ、すみません。明日は少し、用事があって」
「そうなんですか」
「またの機会に」

そう言うと彼女は明らかに落胆したように表情を曇らせた。僕はそれを見て少し悪いことをしたような気持ちになった。彼女の明るい顔を見たくて、つい「君と出掛けられないのは残念です。そうですね、次があればそのときは君のために一日空けておくことにしましょう」などと言ってしまうのだ。君が顔を上げた瞬間の輝くような表情をみたくて。

「では、約束ですよ。絶対連れて行ってくださいね」
「ええ、もちろん」

その"次"がおそらく永遠に来ないことを知りながら答える。ええ、もちろんそんな日は来ませんよ。言葉の大切な部分を省略する。きっと僕と彼女ががふたり一緒に次の市の立つ日を迎えることはないだろう。きっと、その頃には僕は彼女の前から姿を消してしまうだろう。真実を知ったとき君は怒るでしょうか、それとも泣いてしまう?願うことならば、何も思わなければいい。その日までに僕のことを忘れてくれないだろうか。君にはいつも笑っていてほしい。その笑顔を僕が曇らすなんてこと本当はしたくないのだから。なんて身勝手な願いなのだろう。それは重々承知しているけれど、僕は君にそれを謝る術を持たない。せめて心の中でだけ、すみませんと謝る。

「本当ですか」

澄んだ瞳が覗いてくる。こんな透明な瞳で見られたら僕のずるさなんて全て見通されてしまうのではないかと気が気でなかった。彼女の純粋さは疑うことを知らないけれど、同時に真実を見抜くことが出来るのではないか、と。僕の嘘はいつか彼女に露見し、僕はいつか彼女の手によって裁かれるのではないか。そんな予感がした。いや、予感ではなくこれはただの願望だ。僕は楽になりたがっている。

「うそつき」

彼女がそう言った気がした。もちろんそんなものは僕の罪悪感が見せた幻だったのだけれど。

「楽しみにしていますから」

現実の彼女はそう僕に微笑みかける。「では、また」と手を振って、彼女は坂を下っていった。
 

透明な願い