「弁慶先生、」

そう私がそっと遠慮がちに呼びかけると、小さな男の子と喋っていた彼が振り向く。男の子は「ありがと、せんせ!」と言って元気に駆け出していった。それを確認してから彼はこちらに向き直る。

「おや、さんいらしてたんですか。具合はもう大丈夫なんですか?」
「ええ、もうすっかり。弁慶先生のおかげです」

私がそう言うと弁慶先生は微笑んで「それは良かった」と言った。ほんの数日前、私は体調を崩してこちらの弁慶先生に診ていただいたのだ。弁慶先生は以前はよくこちらにいらしたのだけれど、最近はあまり見かけない。だからあのときの私は運が良かったのだ。今日だって運がいい。

「またどこか悪くなったのかと心配してしまいました」
「弁慶先生がこちらにいらしてると聞いたので先日のお礼に」
「わざわざありがとうございます」

ふわりとした微笑みが私に向けられる。本当のところはそんなの口実にすぎないのだけれど。本当は『あなたに会いたくてきたのです』そんなこと言えない。わざわざお店に休憩をもらってまでしてあなたに会いに来ただなんて。

「あなたのような可愛らしい方が僕に会いに来てくださるなんて、嬉しい限りですね」

まるで私の心を見透かしたような返事が甘い言葉で返ってくる。意識しちゃ駄目だと分かっているのに、頬に熱が集まる。彼はお世辞がうまいのだ。私以外の人にだって同じようなことを言っているのを知っているのに。こういう人だと知っているのに。

「いえ、そんな…」

どうしても嬉しいと思ってしまうのだから重症だ。あなたが薬師なのに、と下らないことを思う。もっとまともな返事が出来ればいいのに。もっと会話が弾むようなことが言えればいいのに。そう思ってぐるぐると考えてみても彼を前にすると意味のない言葉ばかりが口をついてしまう。

「本当のことなのに」

彼は私を際限なく惑わす。もし仮に、それが彼の本心からの言葉だったとしても、他意はないのだ。知ってる。知ってるのに。もし仮に彼が私のことを本当に可愛いと思ったとして、それはそれ以上の意味は持たない。それは彼の私に対する『感想』であって『感情』ではないのだ。

「顔が赤い」

彼がぽそりと呟いた。すぃっと彼が顔の位置を下げて視線を私とぶつからせる。「え、」かろうじて聞き取れたその声に慌てて頬を押さえる。今さら隠したって遅いのだけれど。手の冷たさで少しでも熱を冷まそうとする。けれども顔の赤さを指摘されたことによって、先ほどよりも熱は上がるばかりだった。

「少し、無理をさせてしまったようですね。僕としたことがあなたとのお喋りが楽しくてつい長話をしてしまった」

憂いを帯びた小さな溜息が吐かれる。『無理をさせた』という言葉でやっと私は彼の思うところを知る。つまり、彼は病み上がりの私がまた体調を悪くしたと考えたのだ。

「あなたは吹けば散る花のようなのだから、僕はもっと気を配るべきのに」
「私、大丈夫ですから。何ともありません」
「無理はいけませんよ」

そう言って彼は外套を私の肩にかけた。ふわりと彼の髪が風になびいたのを目の端が捉えた。

「あまり僕を心配させないでください」

真摯な瞳が私を覗き込む。私の心配をしてくださるのは一体誰なのでしょう。薬師の弁慶先生?それとも、?その疑問はついに口に出ることはなく、ただただ私は顔を赤くして俯いていた。
「弁慶先生、」とあなたを呼ぶ次の言葉が出てこない。 
 

幻想の言葉