運動をする必要があると強く感じた。

「この太ももはまずい……」

 誰に言われたわけでもないけれども、お風呂に入るとき自分の足を見下ろして思った。筋肉も何も付いていない。太ももだけではない。全身そんな感じだ。最近やけに疲れやすいのも、そのせいかもしれない。
 そこで一念発起して、私はスポーツジムに入会したのだった。

 *

「こんばんは。今日も熱心だね」

 そう声をかけられ、振り返ると、スイミングキャップから赤毛を覗かせた悪魔がゴーグルを外し、こちらへ微笑みかける。

「ツムルさんこそ」

 毎日通うようになったプールで、顔見知りになった彼は、こうしていつも声をかけてくれる。仲間が出来るとダイエットも続くとはよく言ったもので――いまや、このジムに通う目的の七割は彼に会うためと言っても過言ではなかった。
 このジムに通う目的が新たにひとつプラスされた。彼に見せても恥ずかしくない体になること。いつもプールで会っているのだから、すでに水着姿を見られていることは置いといて。

「今日は来るの少し遅かったね。仕事忙しいの?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど。……帰り際に課長の長話に捕まっちゃって」
「それは大変だったね。俺も帰り際に長説教されたりとか、よくあるから気持ち分かるわー」
「ツムルさんが説教される?」
「ホント、マジで」

 ツムルさんとのお喋りは楽しい。心地良いテンポで返事が返ってくるし、話していてつい笑ってしまうような話題が多い。――惹かれてしまうのも無理はない。

「そう言えば、そろそろ二十五メートル泳げるようになった?」
「あはは、それはまだ……」

 体力のない私はまず水中ウォーキングから初めているところなのだ。それも最初の頃はきつかったが、今ではちゃんと一日のメニューをこなせるようになった。
 ガンガン泳ぎにきている彼は一緒に泳ごうといつも誘ってくれるのだけれど。そんな簡単にひとは変われない。

「今日はそろそろ終わり?」
「あ、はい。そろそろ時間ですね」
「……それじゃあさ」

 そこで彼が一度言葉を切る。いつも明るく快活な彼にしては珍しい。職業は先生だとかで、いつも話す言葉は澱みなく分かりやすすぎるくらいなのに。
 首を傾げつつ彼の言葉の続きを待っていると、彼の唇が微かに動いた。

「このあとご飯でも、どう?」

 そう言って彼が頬を掻きながら言う。
 これまでプールで会えば立ち話をする程度。長くても、ロビーのベンチで運動終わりの水分補給をしながらお喋りをする程度だった。私たちの関係はこのジムのプールを出ることは今まで一度もなかったのだ。

「えっと、その……、いいですね」

 一歩踏み出すのには勇気がいる。たった一言答えるだけなのに、今回はジム通いを決めたときより数倍の勇気が必要だった。

2023.03.16