今日はきっと厄日だったのだ。

 仕事で失敗をしてしまった。リカバリーは十分可能なものだったが、それを嫌味な上司にネチネチ言われ、こちらは余計な時間を取られたのに相手は定時で帰っているのも腹が立つ。
 しばらくはその怒りで誤魔化せていたけれども、同僚がひとり、またひとりと帰宅していき、最後にひとりきりになると今度は悔しさと虚しさが押し寄せてくる。

 どうして私の方があの上司よりも位階が下なのだ。あれよりも私の方が無能だというのか――
 そこまで考えてしまってから、被りを振って思考を追い出す。

 勢いに任せて印を押すと、誰もいない部屋にダァンと大きく響いた。
 その残響がさらに虚しく聞こえて、思わずぱたりとデスクに突っ伏す。

「会いたい……」

 ぽつりと言葉が零れた。思い浮かべるのは学生時代の先輩だ。その姿が瞼の裏に浮かんでは消えて、消えては浮かぶ。
 悪魔学校卒業後もたまに連絡して会ったりしているけれども、さすがに夜遅い時間に呼び出して愚痴を聞いてもらえるような仲ではない。

 中途半端に電話を握った手が落ちる。

 ――決してやさしいだけの人ではなかったけれど、私にとってあの人は正しさであり、憧れの人だった。


  *


「――だからってこれはダメでしょ……!」

 ハッと我に返るとサリバン邸の前にいた。
 咄嗟に塀の影に身を隠す。

「どうして? オペラ先輩のことばかり考えていたから!?」

 職場を出て帰路に着いてからの記憶がない。ぼんやりと先輩のことを考えていたことは覚えているが、自分がどの方角へ向かって、どの道を通ってきたのか全く覚えがない。

 きょろきょろと周りを見回してみたが、辺りに人影はなかった。そのことに安堵の息を吐く。
 こんな風に屋敷の周りをこそこそとうろついていたら傍目には怪しく映るに決まっている。しかもここは高位階悪魔サリバン様のお屋敷なのだ。見つかったら不審者として捕まって尋問されたっておかしくない。

「帰ろう。今すぐ帰ろう」

 いつ私の気配を魔術で感知されてもおかしくない。

 最後にちらりともう一度屋敷に目を向ける。ここから窓越しでもオペラ先輩の姿が見られたら――そう思ったけれども、現実は塀から屋敷までが遠すぎて窓に映る影すらも見えないのだった。

 それにがっくりと気を落としながらも、飛んで帰るために羽を広げようと背中に力を込めたときだった。

「こんなところで何やってるんですか」
「ひゃっ!」

 後ろから突然声がして、肩に手を掛けられる。驚いて振り返ると、そこにはよく見知った――私が会いたいと思い描いていた人がいた。

「オペラ先輩!」

 喜びの声を上げてしまったのも束の間、先輩の怪訝そうな表情を見て一瞬で気持ちが沈んだ。

「あの、これは、その……」

 偶然通りかかってという言い訳は通用するだろうかと頭の中で必死に演算する。
 何をやっているのかという先輩の問いに答える言葉を私は持っていなかった。

「屋敷の前でうろうろされては迷惑です」
「そう、ですよね……」

 先輩の言葉にそっと瞼を閉じる。正論だ。

 素直に退勤する前にオペラ先輩へ連絡すれば良かったのかもしれない。けれども、こんなことでオペラ先輩に連絡するのはどうかと思ってしまったのだ。先輩はサリバン邸に住んでいるのだから訪ねづらいなとか、もしまだ先輩はお仕事中だったらどうしようとか。そんな余計なことばかり考えて、動けなくなってしまった。

 昔は何でも相談出来たのになぁ、なんてことをつい考えてしまった。悪魔学校を卒業してから随分経つけれど、その間何度となく思ったことだった。今も十分先輩は私に良くしてくれるけれど、少しだけ寂しい。

「昔は何でも相談出来たのになぁ、なんて考えているでしょう」
「えっ、なんで分かったんですか!?」
「顔に書いてあります」

 分かりやすくて便利ですと先輩が笑う。表情はほとんど変わっていないが、その僅かな変化が何を表しているのかぐらいは分かる。

「昔からキミはそうですね」

 仕方ない、と先輩がひとつ息を吐く。こういう諦めたような呆れたような、それでいてどこか柔らかな先輩の表情には見覚えがあった。期待でドキリと心臓がひとつ鳴る。

「ちょうど明日の仕込みも終わったところです。これから一杯くらいなら付き合いますよ。探せばまだ開いてる店もあるでしょう」
「おぺらせんぱい〜〜」
「はいはいオペラ先輩ですよ。ほら、鼻かんで」

 堰を切ったようにぐちゃぐちゃになった顔に先輩がハンカチを当ててくれる。
 何かあったことを察してくれたのだろう。こうして話を聞こうとしてくれるだけで十分だ――そう思ったのに。

「大丈夫、キミは私が仕込んだ優秀な悪魔です」

 ぽんぽんと慰めるようにオペラ先輩の手のひらが私の頭に触れる。瞬間、またじわりと視界が白く滲んだ。
 この人はいつもそうだ。何があったか話す前に、私のほしい言葉を与えてくれる。

 ふと学生時代のことを思い出した。
 こうして先輩の手のひらのあたたかさを感じているとまるで魔法のように気分が落ち着いていく。――この人のことだから本当に魔術を使っているかもしれないが。

「どうして何でも分かっちゃうんですか」
「キミは何もないのにサリバン邸の周りをうろうろするんですか。だとしたら変質者ですね」

 オペラ先輩の言う通りなのだけれど……! 即変質者認定されて警察に突き出されないだけマシなのかもしれないけれど!

 もうちょっと言葉を選んでくれてもいいのにと思いながらも、懐かしいやり取りにほっとする。こういう風にやさしくしてくれるから私は学生の頃のまま、先輩から離れることが出来ないのだ。

 さっさと歩き始めてしまった先輩の後を追っていると、不意に先輩が歩みを止めた。くるりと振り返ると先輩が私の顔を覗き込む。

「それとも、キミは何もなくてもただ私に会いに来てくれるんですか?」

 宵闇の中でも、先輩がゆっくりと瞬きをしたあとに悪戯っぽく目を細めたのが分かった。

 もしかしてまだ、私はこの人にもっと甘えてもいいのかもしれない。

2020.10.10