「カルエゴ先生、海に行きましょう!」
「行かん」

 職員室の一角、他の教師が出払ったタイミング。
 雑誌の特集ページをカルエゴ先生の顔の前に掲げると、彼はそれを一瞥もせずにはたき落とした。容赦がない。

「いいじゃないですか、ちょっとくらい!」
「良くない! 寝言はこの山積みの仕事を片付けてから言え」

 そう言って私の机の上に積まれた書類たちを指差す。「終末日でも教師は休みじゃないんだからな」と言う彼の言葉は全くもって正論だ。正論、なのだけれど。

「だからこそ、ちょっとだけでも思い出を作りたかったんだけどな……」
「ぐっ……!」

 恋人とお出掛けしたい。
 そっと顔を上げて様子を窺うと、彼は眉間に深い皺を刻んで、それはそれは険しい表情をしていた。

      *

「やったー! 海だー!」
「夜の海で良かったのか」

 海に向かって駆け出す私の後をカルエゴ先生がついてくる。

「もちろんです!」

 本当は心のどこかで来られないかもしれないと思っていた。終末日でも教師は忙しく、それにカルエゴ先生がこういうところに付き合ってくれるのも意外だった。
 彼は私の気持ちを尊重して、大切にしてくれる。そういうところがますます好きになってしまう。

「誰もいない海をふたりじめですよ!」

 彼の方を振り返って両手を広げると、まるでこの海が全部私のものになったかのように錯覚する。
 靴を脱いで波打ち際を歩くと、湿った砂の感触と、寄せては返す波が足をくすぐる。太陽が翳っても、昼間の熱い空気はまだ残っていて、頬を撫でる潮風がそれを攫っていく。

「転ぶなよ」

 子どもじゃないから大丈夫ですと大きな声で返しながらぱしゃぱしゃと波を分けて歩く。動くと少し汗ばんで、よく冷えたお酒を持ってきても良かったかもしれないなと思った。

「冷たくて心地良いな」

 彼の声が予想よりも近くに聞こえて、驚いて振り向くと隣にカルエゴ先生がいた。脱いだ靴を持って何事もないかのように歩いている。

「せ、先生……! ズボンの裾濡れちゃいますよ!」
「少しくらい構わん。すぐ乾く」

 そんな彼の言葉が意外で私は思わず目を丸くさせてしまう。絶対カルエゴ先生はこういうことをしないタイプだと思っていたのに――私に合わせてくれたのか。そう思うとただでさえゆるんでいた頬がさらにゆるみきってしまう。

「カルエゴ先生。……そぉれ!」

 足元の水を掬って、彼に向かって掛ける。上手くいくとも思っていなかったけれども、またもや意外にも彼は真正面からそれを被った。

「きっさま……!」
「ふふ、油断大敵ですよ」

 彼の髪から水が滴って、それを彼の右手が掻き上げて振り払う。その仕草が色っぽくて、私の胸はまた一段とうるさくなる。

「海、楽しいですね!」
「……まぁ、思ったより悪くはないな」

 そう言って彼がかすかに目を細める。彼の後ろには大きな満月が浮かんでいて、私はこの光景をずっと忘れないだろうななんて思ったりした。

2020.07.12