「いらっしゃい」

 カランとドアベルの鳴る音がしてそちらへ目を向けると、ひとりの男が立っていた。見慣れた顔に思わず小さく笑みが漏れる。
 彼の後ろにどんよりとした灰色の雲が見えた。今にも雨が降り出しそうな空だった。

「あら、カルエゴ先生。すみません、マスターは今丁度買い出しに行っていて……」
「構わん」

 店の主人が不在であることを伝えたが、彼は意に会することなくコートを脱ぎながら店の中に入ってくる。少ない人数で回しているこの店は、マスター不在の時間も珍しくなかった。

「お久しぶりですね……と言っても二週間ぶりかしら? 先週はいらっしゃらなかったから」
「仕事でな」

 言いながら彼がいつもの席に着く。窓辺の奥から二番目の席が彼の定位置だった。

「休み返上でお仕事ですか? 悪魔学校の教師も大変ですねぇ」

 教師というのはとても忙しい職業らしい。特に今年は悪魔学校の生徒のことを新聞で目にする機会も増えた。どことなく彼の目の下の隈も濃くなっているようにも思える。

「ここはいつ来ても客がいないな」
「先生が来てくださるじゃないですか」

 彼の皮肉を躱しつつ、おしぼりとお水を彼の前に置く。

「コーヒーひとつ」
「だからマスターは買い出しに行ってるんですって」
「だから構わんと言っている」

 他の常連客ならマスターが帰ってくるまで待っているというのに短気な人だ。それともこのあと用事でもあって急いでいるのだろうか。そんな風には見えないけれど。

「もう、仕方のない人ですね」

 マスターの入れるコーヒー目当てで来る客の中で彼は珍しく私の淹れたものでも良いと言う。私も日々修行しているとはいえ、マスターの味には遠く及ばない。「あとでちゃんとマスターに淹れ直してもらいますから」と付け足すと彼はふんと鼻を鳴らした。

 お湯を沸かし、フィルターを用意する。慣れた手順でコーヒーを淹れていく。同じことをしているはずなのに私の淹れるコーヒーはちっともマスターのコーヒーに近づかない。
 彼の前に出来上がったコーヒーを差し出せば、カップとソーサーが触れ合ってカチャリと極小さな音を立てる。その音を合図に彼は本から視線を上げた。

「どうぞ。ゆっくりしていってください」

 多分、この人はこの店にコーヒーの味だけでなく、何か別のものを求めてきているのだろう。かのカルエゴ卿ならばもっとその身分に相応しいサロンなどでお茶すれば良いはずだ。果たして私は彼の求めているものをきちんと差し出せているだろうか。
 窓の外に目を向ければ、しとしとと雨が降り始めていた。

「雨ですよ。マスターは無事に帰って来れますかねぇ」

 私の独り言に相槌はない。ただ彼は黙って窓の外に視線を向けただけだった。
 

2020.11.02