うっかり落ちてしまった。
 天使が下界を覗いて穴から落ちるなんて、間抜けすぎて他の天使に絶対知られるわけにはいかない。けれども、私は魔界まで落ちたことを後悔してはいなかった。
 身を起こし、顔を上げると、目の前に立っている男性悪魔が、かすかに身構えるのが見えた。彼の姿を視界に収めると、ドキリと心臓が鳴る。

「こ、こんにちは、ご機嫌いかがですか?」

 愛想笑いを浮かべながら挨拶をする。羽は隠しているから大丈夫。頭の上の輪っかもきちんと見えなくしてある。悪魔と同じ羽と角、そして尻尾はないけれど、それを外に出して見せない悪魔も多いから、不審に思われる点はないはずだ。今の私は悪魔に見えているはず。

「どこから落ちてきたのかな?」
「えっと、空! 空を飛んでいる最中に羽のあたりを攣ってしまって! ピキっと! そういうことってありますよね!?」
「いや、ない」

 真顔できっぱり否定される。まぁ、天使もそんなふうに落ちることは滅多にない。よっぽど鈍臭い天使だけだ。悪魔もきっと同じなのだろう。

「そんなぁ、ありますよ……」

 本当のことを言うわけにはいかないから、この設定を突き通すしかないのだけれど、段々と自信がなくなってくる。おかしいと思われてしまっただろうか。正体がバレてしまっただろうか。
 恐る恐る彼の様子を窺うと、彼はぷっと小さく噴き出した。

「あはは、キミって面白いね」

 わぁ、と。私は思わず感嘆の声を上げてしまった。あまりにも屈託なく彼が笑うから。私が天界で、もっと間近にみたいと思っていた彼の表情そのものだったから。

「どうかした?」
「今の表情! 今の表情をもっと見せてください!」
「え?」

 そう言って彼が困惑しながらも笑う。さっきとは違う表情だけれども、これも好ましい。最初にあった警戒の色はすっかり隠れ、多少親しみのこもった表情だ。今の表情をずっと見ていたい。いや、もっと他の表情も沢山見てみたい。

「私、あなたのことをもっと知りたい」

 だから、身を乗り出してしまったのだ。これ以上は危険だと分かっていたのに、穴の淵から上半身を大きく乗り出した。魔界を覗いてたまたま視界に入った悪魔だったけれど、なぜか彼から目が離せなくなって。もっと近くで見てみたいと思ってしまった。

「それで落ちてしまったんです」

 恋に。
 私の言葉に彼は目を丸くさせてぱちくりと瞬きを繰り返した。
 

2023.02.13