「やぁ、サボらず働いているかい?」
「ダンタリオン、さん……」
「ダリでいいってばー」

 そう言って彼は人の良い笑顔を浮かべる。その表情に騙されてはいけないことは、これまでの経験から学習済みだった。
 手に持った箒を握りしめて、やや身を引いて彼との距離を取る。

「オトンジャさんには良くしていただいています」
「彼は優秀な管理人だからね。色々学ぶといいよ」
「……はい」

 言われなくても沢山学ばせてもらっている――とは言えなかった。今の私は彼に雇われているようなものだ。雇用主に逆らうほど、私も馬鹿じゃない。
 今の私は教師寮別館の寮母のような仕事を与えられているのだ。共有部分を掃除し、決まった曜日に朝晩の食事を作る。管理人と呼べるような権限はない。

「精進シマス……」

 そして何より、今の私の身分は彼、ダンタリオン家の預かりということになっているらしい。誰も頼れる人のいない魔界で、庇護を失うことがどれだけ恐ろしいことか理解しているつもりだ。

「昨日の休みは羽を伸ばせたかな? 随分遅い時間まで出掛けていたみたいだけど」
「……」

 監視されているようで正直気分は良くなかったけれど、彼はそんなつもりはなく、単に隣の部屋から物音が聞こえなかったからそう言っているだけなのだろう。私の部屋は彼の部屋の隣を与えられていた。
 初日に『ここで暮らしてもらう』なんて言われたときはこの人と同じ部屋で寝泊まりするのかと思って身を強張らせたが、蓋を開けてみると私の勘違いで、“この教師寮別館で暮らす”という意味だった。隣の部屋を案内されたときは脱力した。
 とは言え、彼は私を管理する立場なので、私の部屋の合鍵は持っているのだけれど。

「その発言、ストーカーっぽいですよ」

 少しばかり言い返してやると、彼はガーンと効果音の付きそうな表情を見せた。

「ぼ、僕は君を心配してね……!」
「今度は父親気取りですか?」
「父親……!?」

 ワタワタと彼が焦り出す。いつもはこちらが彼の手のひらの上で転がされる立場なのに、今日はそれが逆転している。その様子が珍しくて、おかしくて、思わず口元がゆるんだ。

「僕が父親のように見える……?」
「冗談ですよ」

 あまりにもショックを受けている様子だったので、からかうのはこの辺でやめにした。悪魔だから実際彼がどれくらいの年月を生きているのか知らないけれど、見た目だけで言えば私より少し上くらいにしか見えない。とてもじゃないけど、父親には見えない。

「やっぱり心配だから、今度は僕が買い物についていこうかな」
「えっ……」
「嫌?」
「嫌じゃ、ないですけど……」

 人間である私は一人で出歩くことを許可されていない。身を守るためでもあるし、それは理解しているのだけれど、毎回買い物のために誰かを連れ回すのは申し訳なかった。だから、彼の思惑がどうであれ、付き合うと言ってくれるのはありがたくもあった。
 でも、彼が自らそんなことを言い出すことは今までなかったのに。

「じゃあ、今週末はふたりきりでお出掛けだね」
「な……!?」

 確かにふたりで出掛けるので間違ったことは言っていないけれども、どこか含みのある言い方はまるでデートだと言っているかのようで……

「変な言い方しないでください!」
「あはは」

 もうすっかりいつものように彼のペースに乗せられてしまっている。肩のあたりを軽く叩くと、彼は楽しそうに無邪気な笑顔を見せた。

2023.04.16