「貴方はやさしいですね」

 特別言われるようなことでもなく、人並みだと思うのだけれど、彼――アスモデウス・アリスは私によくそう言う。
 アズくんが困った表情をしていたから声を掛けたとき、特訓で頬に泥が付いていたのでハンカチを貸してあげたとき、一緒に食堂の席取りをしにいったとき。友達に対して当然のことをしただけなのに、彼は眩しそうに目を細め、甘やかすように言う。
 ――アズくんが私のことを“やさしい”と言ってくれるから、私もそれに近付けるよう頑張りたくなるのかもしれなかった。



「やっべ、魔歴の教室分かんなくなった」
「あっちじゃね?」

 廊下を歩いていると、ふとそんな会話が聞こえた。広い悪魔学校の校舎は迷子になりやすい。自分も先日迷ったことを思い出した。

「あのー、その教室なら、そこの角を曲がったとこですよ」

 お節介かなと思いながらも、正しい方角を指し示す。彼らが行こうとしていたのとは逆の方向だ。突然話しかけられた男子生徒ふたりは一瞬驚いたように目を丸くさせ、そののち「ありがとうございます!」と軽く頭を下げて、私が指差す方向へ小走りで去っていった。

「知り合いですか?」

 私の隣に立っていたアズくんが尋ねてくる。横を向くと綺麗な顔が怪訝そうな表情をしていた。

「いや、知らない子だけど、困ってるみたいだったから」

 名前やクラスは知らないけれど、どこかで見たことのある顔だったから、同じ一年生だとは思う。こうして改まって答えると、本当に出しゃばってしまったのではないかと恥ずかしくなる。でも授業に遅れて先生に怒られたりしたら気の毒だし……。彼らも笑顔でお礼を言ってくれたのだし、良いことをしたのだと思いたい。

「ほら、私たちも行こ?」

 気恥ずかしさを振り切るように前を向く。歩き出そうと足を上げたところで、手を掴まれ引き止められた。

「……私以外にやさしくしないでください」

 彼の手が縋るように私の手を握る。驚いて彼の顔を見遣ると、ひどくつらそうな泣き出しそうな表情をしていた。そんな彼の表情を見るのは初めてで、ドキリと心臓が鳴った。

「でないと、皆貴方のことを好きになってしまう」

 それを言うのは私の方ではないかと思う。誰も彼もが憧れる“アスモデウス様”はあなたの方で、私はといえばごく普通の女生徒だ。容姿も成績も人並み。性格だって、誰にでも優しい聖母のような性格はしていない。さっきは見える範囲で困っているひとがいたから、手を貸しただけ。まだ、彼の言うような“やさしい人”にはなれていないと思うのに。

「アズくんは大袈裟だなぁ」
「そんなことはありません!」

 笑い飛ばして冗談にしてしまおうと思ったのに、それを彼が勢いよく遮った。

「私は、いつか貴方が誰かに取られてしまうのではないかと不安に思っているというのに」

 まっすぐに見つめられると、何も言えなくなる。この言葉がトドメとなり、もうすっかりキャパオーバーだった。彼の言葉の意味を知りたくて、尋ねたいのに、口の中がカラカラに乾いて喋れない。「あの……」とやっと小さく声を出す自分の顔が真っ赤になっている自覚はあった。

2022.12.11