翌日、目が覚めると赤い糸は跡形もなく消えていた――なんてことは全くなく。
私とアズくんが文字通り赤い糸で繋がれてから数日が経った。
朝は入間くんたちと一緒に登校。席はアズくんの隣。移動もアズくんの隣。昼食も入間くんたちと一緒に取る。こうして一日のほとんどの時間をアズくんと一緒に過ごしているけれども、中には当然一緒にいられない時間もある。
「では、また下校時刻に」
そう言ってアズくんが私の手を離す。しかも一度恭しく掲げたあとに。まるでお姫様に対するような仕草に、最初は顔から火が出るほど恥ずかしかったが、この数日の間に少しだけ慣れた。まだ顔が熱くはなるけれども。
「うん、またあとでね」
返事も返せるようになった。彼は何かを言いたそうな視線を向けたあと、こちらに背を向けて去っていった。私はひらひらと手を振って彼の姿が見えなくなるまで見送ったあと、息を吐いた。
「あの子、なんか最近近くない?」
「一体どんなずるい魔術を使ったのかしら」
ひとりで廊下を歩けば、こちらを見て囁く声が聞こえてくる。小さな声だけれども、私に聞こえてしまうことを厭わない声色だった。それを全部無視して廊下を進む。
「アスモデウス様も無理をなさっているに違いないわ」
ドキリと心臓が鳴る。糸が見えるようになったあの日から、ずっと考えないようにしてきたことがある。
――アズくんは、私のことをどう思っているのだろう。
アズくんはもうすでに私のことが好きなのだろうか。それともこれから先好きになる? もしかして、今は好きな人が別にいる可能性もなくはない。この糸のせいで彼の心が捻じ曲げられて、無理矢理私に好意を持つよう仕向けられている可能性は?
私は彼と運命の糸が結ばれていることに舞い上がってしまったけれど、彼にとっては迷惑なことだったのかもしれない。彼は未だこの糸の持つ意味を知らないのだ。知らないから今は私の言葉を信じて好意的に思ってくれているけれども、本当のことを知ったとき彼はどう思うのだろう。
――この糸を切ってしまいたいと、思うのだろうか。
それを考えると胸の奥がざわめいた。
「あ、ちょうど良かった! 僕も今来たところなんだ」
気付けば、いつの間にか目的の教室の前までやってきていた。ドアの前に入間くんが立っていて、ちょうど中に入ろうとしていたところだった。クララちゃんは別用からまだ帰ってきていないらしい。
「今日はね、とっておきのおやつがあるんだ〜」
そう言いながら入間くんがドアを開ける。
アズくんもクララちゃんも用事が終わったらここにやってくることになっている。
「ありがとう」
ドアを閉めると、午後のやわらかい光がたっぷりと差し込む空間にホッと息を吐いた。
ふたりでおやつの準備を整えていく。
「食べるのは全員揃ってからね!」
そう言う彼が一番食べたそうにしているものだからおかしかった。
「あのさ、入間くんに、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
お菓子を並べ、お茶を淹れ終わった今、相談するチャンスだと思った。ずっと気になっていて、誰に相談したらいいか悩んでいたけれど、やっぱり彼しかいないという結論になった。
「その……、アズくんの……好きな人っているのかな?」
「あの、それは……! やっぱり、その……」
「えっと、その、この糸が繋がってるからどうしても気になって……!」
私の質問に入間くんの顔が一瞬で真っ赤に染まる。
一緒に暮らしている弟のような存在である彼に、こういう相談をするのは気まずいし、彼もこういった話題が得意ではいことは分かっていた。けれども、“運命の赤い糸伝説”を知らない悪魔に一から説明するのは大変だし、恥ずかしい。人間である入間くんならその手間が省けるのだ。それにアズくんのことを一番よく知っているのも親友の入間くんだ。
「ごめんね、僕からは何とも……」
そう言って彼は眉を下げる。これも予想していた答えだった。
「まぁ、そうだよね。分かんないよね……」
アズくんは私たちの前では気持ちが分かりやすいけれども、元々は感情を隠すのが得意なひとだと思う。私と違って。そんなひとが恋心のような大切な気持ちを他人に簡単に悟らせるとは思えない。でも、それでも、入間くんなら知っているかもと思ったのだけれど。
「僕より女の子の方がそういうことには詳しいんじゃないかなぁ!?」
「ひとの心が簡単に分かれば苦労しないよ〜」
「それもそうだけどっ!」
ぐでっと机に突っ伏す私を見て、彼がふっと息を吐く。私よりアズくんと仲が良く四六時中一緒にいるのは入間くんとクララちゃんだ。彼に分からないのであれば、きっと誰もアズくんの本心は分からないだろう。
「直接聞いたらどうかな?」
「えー?」
彼の大胆な提案に、姿勢を崩して頬をテーブルに付ける。
「無理だよ……」
そんなふうに聞けるくらいだったら、もうとっくに告白している。
これまでアズくんとの仲は悪くはなかったと思う。でも決して、それ以上でも以下でもなかったのだ。
「そもそも運命が、悪魔と繋がったりするのかな……」
私の小さく呟いた言葉がテーブルに落ちる。
悪魔と人間がお互い運命の相手だなんて。私が魔界に来なければ出会うことのなかったひとのはずなのに。考えれば考えるほど、分からないことだらけだ。小指を立ててそこに結ばれた糸を揺らす。
最初は相手がアズくんだということだけで嬉しかったのに、どんどん欲が出る。
「変なこと聞いちゃって、ごめ――」
もうこの話題は切り上げてしまおうとしたときだった。――ドォンと大きな音が響いた。
「えっ、何!?」
「すごい音だったね!? 廊下かな?」
ふたりして慌てて立ち上がり、部屋の外に出てみると、濛々と砂埃が立ち込めていて何も見えない。徐々に霧が晴れると、生徒が大暴れしている姿があった。
「悪周期だ! このままだと巻き込まれる! 離れろ!」
「あいつの家系能力は何でも切っちまうぞ! 気を付けろよ!」
周りにいた生徒が叫ぶ。放課後とはいえ、生徒はかなり残っていて、私たちと同じように騒ぎを聞きつけてやってきた生徒で人だかりが出来ていた。
「えっ! 何でも!? 大変、ここは逃げなきゃ……!」
悪周期の生徒が問題を起こしてしまうことはこの学校で珍しくはないが、ここまで派手に校舎が壊れるのは滅多にないことだ。私たちで抑えられる範囲を超えているので、とりあえず巻き込まれないようにここを離れようとそう思ったとき。
「アズくん!」
悪周期の生徒を挟んで反対側にアズくんの姿が見えた。――そして私たちを結ぶ糸は暴れる悪周期の生徒の傍を通って垂れていた。
私の声に彼がハッと顔を上げ、こちらへ視線を向ける。
キラリと光る刃が見えた。暴走している生徒はその刃を大きく振りかぶり、今地面に振り下ろされようとしていた。
――糸が、切れてしまうと思った。
「危ない!」
気が付くと、勝手に体が動いていた。反対側でアズくんも動くのが見えたけれども、それよりも私の方が早かった。ふたりを結ぶ糸を持って、駆ける。すぐ後ろで空を切り裂く風の音が聞こえた。
アズくんのいるところまで倒れるように走ると、崩れ落ちそうになる私の体を彼が抱き止める。そして、パラパラと飛んでくる小石から守るように覆いかぶさって庇ってくれた。
小指に視線を向けると、糸は途切れることなく彼の小指に繋がっていた。
「糸、切れなくて良かった……」
「どうしてこんな危険なことを……!」
アズくんが私の肩を強く掴んで、顔を覗き込む。その瞳は燃えるように強く、怒りが宿っていた。自分から危険に飛び込み、間に合ったのは本当に運が良いだけだった。それは、自分でもよく分かっている。
「だって、だって、これはアズくんとの――」
じわりと視界が滲む。
それでも私は守りたかったのだ。糸が切れてしまうのなら、それまで。きっとそれが運命なのだろう。でも、私はそれを大人しく受け入れることは出来なかった。
「場所を変えましょう」
そう言ってアズくんが私の肩を抱いて促す。先ほどまで入間くんとおやつの準備をしていた部屋へ。中に入ってアズくんがドアを閉めると、外の喧騒が嘘のように静かになる。
「……すみませんでした。いきなり怒ったりして」
私が何か言う前に彼が口を開く。今までに聞いたことがないほど静かな声だった。
「守ると言っておきながら、遅きに失した自分が不甲斐なく……」
彼が苦しそうにきゅっと眉根を寄せる。確かにアズくんは守ると言ってくれた。でも、今回のことは私が勝手に行動したことであって、アズくんは何も悪くないのに。
「でも、私にとっては貴女より大切なものなどないのです」
そう言ってアズくんが私の手を握る。その体温のあたたかさに心がじわりと溶かされて、奥底にしまっていたものが溢れそうになってしまう。
「でも、だって、運命の糸が切れたらアズくんのその気持ちだってなくなっちゃうかもしれない」
彼のこの気持ちも、赤い糸がそう思わせるだけなのかもしれない。赤い糸が切れてしまえば、私を大切に思う気持ちもなくなって――それで、元通りだ。そうなるのがきっと正しいのだと思っても、胸が千切れそうなほど苦しかった。
「運命の、糸……?」
「そう、この赤い糸に結ばれたふたりは運命の相手なんだよ」
「運命……」
彼が静かに私の言葉を繰り返す。きっと彼はこのあと、私が糸の伝説を黙っていたことに対して怒るだろう。糸によって自分の心が動かされていたかもしれないと知ったら、不快な気持ちになるだろう。――それを私が利用していたと知ったら、きっと嫌われてしまう。それがずっと怖かった。
「――では、私のこの気持ちが糸という形になって現れたのですね」
ひどくやわらかくやさしい声で彼が言う。驚いて顔を上げると、アズくんがまっすぐこちらを見つめていた。
「この赤い糸が見えようと見えまいと関係ありません。この糸が切れたとしても、私が貴女を慕う気持ちが消えるとは、とても思えませんので」
彼が私の左手を取る。恭しく掲げ、一度私と視線を絡めてからその手に口付けを落とす。その小指の先にはいつの間にか赤い糸はなくなっていた。解けてしまったのか、私に見えなくなってしまっただけなのかは分からない。
「好きです。ずっと私が慕っていたこと、貴女は気付いていなかったでしょう?」
そう言ってアズくんが困ったように笑う。その拍子に彼の髪がさらりと額に落ちていった。
「糸があろうとなかろうと、私を貴女の運命のひとにしてください」
溶けそうなほどやわらかい瞳で彼がこちらを見つめている。彼の瞳に映るのは私ただひとりで、私は顔を真っ赤にさせながらこくこくと頷くことしか出来なかった。
「ああ、良かった……」
そう言ってアズくんの手のひらが私の頬に触れる。
彼の顔が近付いてくる。
2022.11.26