地面に倒れ込む直前、私の足元から撥ねた泥が彼の頬にぴちゃりとつくのが見えた。


 中庭で、アズくんの姿を見かけて、喜びのまま駆け寄ってしまったのがいけなかった。

「アズくんっ!」

 私の声に彼が気付いてこちらへ視線を向ける。
 中庭は先ほどまで降っていた雨で、地面がぐちゃぐちゃになっていた。足元も滑りやすい。ずるりと足が泥で滑ったのだと、気が付いたときにはもう遅かった。

「ぎゃ!」

 景色はスローモーションのまま、しかし傾く体を今さら立て直すことも出来ずに、びしゃーんと私は雨上がりのぐちゃぐちゃな地面に勢いよく倒れ込んだ。その撥ねた泥は、ぴっと彼の綺麗な顔にまで飛んでいった。
 私は転んだ姿勢のまま、謝罪の意を込めて、額を地面につけた。羽の付け根を見せる、最上級の謝罪だ。

「……」
「も、申し訳ございません」

 自分の服も泥だらけ、水を吸って重くなっていたけれども、それどころじゃない。
 偶然通りかかったアズくんの服を汚してしまった。私が盛大に転んだせいで、彼の白い制服に泥が沢山撥ねてしまった。彼の特注のその制服が一体いくらぐらい掛けて作られているのか想像して、私は顔を青くさせた。

「随分派手に転けたけど、平気?」
「わー、泥だらけ、泥遊び!」

 アズくんと一緒に歩いていたイルマくんとクララちゃんが声を掛けてくれたけれども、アズくんは黙ったままで、その無言の圧力が怖かった。

「く、クリーニング代を……」

 クリーニングで落とせなかった場合、弁償出来るか分からないけれど。
 制服だけじゃない、彼の顔まで汚してしまった。きっとアズくんは怒っているに違いない。――彼に嫌われたかもしれないということが、私にとって一番恐ろしいことだった。せっかく、仲良くなれたのに。すっと冷たく重いものが腹の中に落ちていくような感覚がした。

「おい」

 彼の声が頭の上に降ってくる。その声に私はさらに身をこわばらせ、額をより地面に擦り付けた。彼が一歩こちらに近付いた気配がする。このあと何を言われるのか――

「大丈夫か?」

 彼の言葉に顔を上げる。きっと怒っていると思ったのに、彼の表情は怒りにはほど遠く、眉を下げて思いの外やわらかい表情でこちらを見ていた。

「ほら、立てるか?」

 彼がその場で膝をついて、こちらに手を差し伸べる。当然そこも地面はぐちゃぐちゃで、彼の制服がさらに汚れてしまった。
 目の前に差し出された彼の綺麗な手を、私はじっと見つめることしか出来なかった。

「あの、私の手、泥だらけなので」
「いい」

 そう言って彼が私の手を取る。思わず悲鳴を上げそうになってしまった。アズくんがそこまでする価値が自分にはない。そう思って思わず引っ込めそうになった手を、彼がさらに強く握る。泥で冷たく冷えた手に、彼の体温が心地良かった。
 彼はそのままぐいと手を引いて、私の体を引き上げる。

「仕方のないやつだな」

 私もアズくんも泥だらけだ。彼の手のひらが、ぐいと私の頬を拭う。アズくんの手がさらに汚れてしまうというのに、彼はまったくそれを気にしている様子はない。
 彼の紅玉色の瞳の中に私が映っている。泥の取れた私の顔を見て、彼が満足そうに微笑んだ。

2022.04.10