「アズくん!」
彼の名前しか話せなくなった。
「アズくん、アズくん」
これは比喩ではなく、何を喋ろうとしても本当に口から出てくる音は彼の名前になって出てきてしまう。恋人の名前しか呼べなくなる、そういう魔術なのだという。
授業中は、事情を知った先生たちから今日一日は指されることがなくてラッキーなんて思っていたのだけれど、放課後になるとクラスメイトとお喋り出来ないのは不便だなと思うようになった。
「はい、どうしました?」
何度も名前を呼ばれてつい振り返ってしまう彼にとっては迷惑なものしかないはずなのに、にこにこと笑って嬉しそうにするのだ。
私も他の人の名前より、好きな人の名前を呼べた方がいいなとは思うのだけれど。
「アズくん!」
「ああ、明日の小テストのことですね。それでしたらこのあと一緒に勉強しましょう」
鳴き声のように彼の名前を呼ぶことしか出来ないのに、何故か彼には私の言いたいことが伝わっている。
「アズくん」
「おやつは宿題が終わったあとです」
そう言って彼が笑う。
本当は彼にはテレパシーで私の言いたいことが伝わっているのではないかと疑う。
放課後の教室にはもう私たちふたりしかいなくて、オレンジ色の夕日が彼の髪を染めていた。
「アズくん……」
あまりにも何でも伝わってしまうから、じゃあどこまで伝わるのだろうと思ってしまった。勉強を教えてほしいとか、おやつが食べたいなとかはよく私が言う言葉だ。言いがちだから予測も立てやすいに違いない。では、私が今まで一度も言ったことのないことは? さすがにそれは分からないのではないかと、急に彼を試したい気持ちが湧いてしまった。
恥ずかしくて今まで一度もお願いしたことはないし、これはきっとさすがのアズくんでも分からないだろうと思ったのだ。
――抱きしめてほしい、なんてお願いは。
「もちろん」
それなのに彼は分かったように返事をした。すっと立ち上がると、心得たような表情で近付いてくる。私の手を掴んで引き寄せて、あっという間に彼の腕の中に閉じ込められてしまう。
ぎゅっと抱きしめられ、彼の熱がじわりと伝わってくる。
分からないと思っていたからこそ口に出来たお願い事だったのに、簡単に伝わってしまったことに息が詰まる。何で分かってしまったのだろうと彼を見上げると、甘い眼差しで目が細められる。
「ア……」
彼の名前を呼びかけた私の言葉は、最後まで音にならなかった。
彼の指先が私の頬を撫で、上を向かせると、彼の唇が降ってきた。ついばむように重ねて、すぐに離れる。
「あず、く……!?」
「こうではありませんでしたか?」
そう言って彼がにっこりと綺麗に微笑む。
「一番簡単でしたね。顔を見れば分かりましたから」
私は一体どんな表情をしていたというのだろう。そんな物欲しそうな顔をしていたのかと思うと羞恥で顔から火が出そうだった。
そこまでは言っていないと反論したかったけれど、また彼の名前を呼んでしまえばもう一度口を塞がれてしまうような気がして、私はただ彼の胸に顔を埋めて隠すことしか出来なかった。
2022.02.03