彼のその端正な顔が近付いてくる。目を伏せたその頬に睫毛の影が落ちている。すっと通った鼻、形の良い唇がかすかに開いて私の名前を呼ぶ。
そっと指先で頬を撫でられ、反対の手は私の肩に乗せられている。
ふたりきりの教室で、購買へおやつを買いに行ったばかりの皆はきっとすぐには戻ってこない。オレンジ色の夕日が彼の頬の色も私の頬の色もすべて隠してくれていた。
「だ、ダメーー!!」
そう言って彼の胸を押して突き飛ばすと、そんなに強い力ではなかったはずなのにアズくんは椅子から落ちた。目を丸くさせて、ぱちぱちと瞬きをしながらこちらを呆然と見つめている。
……ちょっと悪いことしたな、とは思っている。
「これくらい、良いでしょう?」
「よ、良くない!」
“これくらい”というのは、多分キスのことだと思う。アズくんと私は付き合っていて、たぶんさっきは良い雰囲気というやつで、普通だったら唇を重ねるんだろうな、ということは分かっているけれども。
「どうして? 減るものでもないのに?」
「減る……っ! 減るってば!」
私の中の何かが擦り減る。アズくんの綺麗な顔が近付いてくるのを待っている間に心臓が張り裂けそうなほど動いて擦り減る!
「とにかく! ダメなの!」
私がそう言うと彼は不機嫌そうに頬を膨らませる。彼がこういう子どもっぽい表情をするのは珍しい。私にだけ、気を許してくれているようで嬉しかったりする。
「頑張った私へのご褒美だと思って」
アズくんはあの手この手で私を納得させようとしてくる。彼の言葉に今度は私がぐっと言葉に詰まる番だった。
「……これが、ご褒美になるの?」
「はい、もちろん!」
そんなふうに言われたらさすがに無視出来ない。最近のアズくんはものすごーく頑張っている。それをずっと彼を見てきた私は知っている。努力している彼に何か与えてあげたいとは常々思っていたことで。
「でもやっぱりダメ!」
何かしてあげたいとは思うけれど、それとこれとは話が別だ。
「何故ですか!」
言葉にしなくても察してくれたら良いのにと少し恨めしく思う。でもいつもきちんと言葉にして伝えてくれるアズくんだから、私ばかりわがままは言えない。
「お、おかしくなっちゃいそうだから……」
この先に進んでしまったら、元の自分ではいられなくなってしまいそうで。
ただ一言伝えるだけなのに、顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
小さな声で言うと、彼は一度驚いたと言うように目を丸くさせたあと、その瞳をとろりと蕩けさせた。――この瞳を見ると私は毎回すべてがどうでも良くなってしまう。
「そうなって、もらえるのなら嬉しいです」
それはとても危険な囁きのように聞こえた。
2022.01.31