朝目が覚めると左手の小指に赤い糸が結ばれていた。
「な、何コレーー!?」
私の叫び声が朝からサリバン邸に響き渡った。
*
「何これ!? どうして私の小指に結ばれてるの? いつ結ばれたの?」
これが何なのか、オペラさんにもおじいちゃんにも分からないらしい。それどころかこの糸が見えなくて、さらにふたりは赤い糸の伝説も知らないようだった。
悪魔には見えない類いのものなのかと思って入間くんに聞いてみても答えはノー。どうやら私たち人間にだけ見えるというものでもなかった。
「私以外の誰にも見えないのもおかしくない?」
私の問いかけに入間くんが困ったように苦笑する。ふたり並んでサリバン邸の長い廊下を歩く。窓からは朝の爽やかな日差しが差し込んでいた。
「でもおじいちゃんも悪い力は感じないって言ってたし。調べてくれるみたいだから少し待ってみようよ」
そう言って入間くんが私をなだめる。
私の親戚ということになっているこの男の子はいつも優しい。
この糸が私にしか見えないこともあって、今日はひとまず普通に学校に行くことになっている。おじいちゃんが言うからには大丈夫なのだろうけれど、念のため糸は切らないように言い含められた。言われなくたって勝手に切ったりしない。
「一体誰に繋がってるっていうのよぉ……」
長く垂れ下がった糸は歩くたびに床に引きづられている。糸は細いので重かったり動きづらかったりするわけではないが気にはなる。長い長い糸はどうやら外に続いているようだった。
別に運命の相手を信じているわけじゃないけど、糸の先の相手に全く興味がないわけじゃない。
私だって年頃の女の子だし、恋に興味がないわけじゃ、ない。
玄関でオペラさんから鞄を受け取って外に出る。
「おふたりとも、いってらっしゃい」
オペラさんに送り出されるいつもと変わらない朝なのに、怖かった。外の世界がこんなに怖いのは魔界に来たばかりのとき以来だった。
だって、悪魔学校に行ってこの糸の先の相手が分かってしまったら? それが見ず知らずの悪魔だったら? そのとき自分がどんな表情をしたら良いのか分からない。それに――
「おはよう、クララ、アズくん」
「おはよー!」
「おはようございます」
一番最後に聞こえた声に私は思わずぎゅっと目を瞑った。
やっぱり駄々をこねてでも学校を休めば良かった。学校に行ってもこの糸の先の相手が見つかるとは限らない。でも――
でも、好きな人の小指にそれが結ばれていなかったら?
こんなのデタラメだって、運命をこんな糸に決められてたまるかっていくら思ったって、心が傷付かないわけじゃない。
「どうかしましたか?」
挨拶も返さず、目を瞑って立ち尽くしている私を不思議に思ったのだろう。アズくんの声が先程よりも近くに聞こえる。
やっぱり心の準備が出来るまで学校を休ませてもらおう――そう思ったのに、突然がしっと左手を掴まれて動くことが出来なくなってしまった。
「アズくん?」
驚いて目を開けると、目の前にはアズくんが。少し焦ったような表情で、彼の顔にかかる髪が少しだけ乱れている。私の手を掴んで、彼の視線はそこに釘付けになっていた。
「糸の先が」
見たくなかったはずなのに、思わず彼の視線の先を辿ってしまった。彼の視線は掴まれた私の手にじっと注がれていて。ゆっくりと視線を下げる。
もしもアスモデウス・アリスに――私の好きな人に赤い糸がなかったら。それを考えるとひどく恐ろしかったのに。
それでも結局私は見てしまった。
――そこには私の小指に結ばれているのと同じ糸が彼の小指にもちょこんと結ばれていた。
「……アズくんにつながってる?」
ほとんど息のような声が溢れる。
床に落ちている糸を辿ったわけではないので繋がっていると断言出来るわけではない。けれども彼の小指に赤い糸が結ばれている理由が他に思い浮かばない。
何度瞬きしても、空いてる右手でごしごしと目を擦ってみても、頬を抓ってみても、彼の形の良い指に巻きつく糸は消えなかった。
ぶわりと、私の心の中に春がやってきたかのように喜びが広がる。
「えっ、相手はアズくん!?」
入間くんが驚いた声を上げる。彼は赤い糸の伝説を知っているからだろう。頬を赤く染めて私たちふたりを交互に見やっている。
「何? 糸がどしたの?」
クララちゃんがアズくんの肩越しにこちらを覗き込んで、きょろきょろと視線を彷徨わせていた。きっと他の人と同じように彼女にも糸が見えないのだろう。
「何なのですか、この糸は?」
アズくんにだけはこの糸が見えている。まるでこの糸で繋がっているのは彼だと示すように。
安堵と嬉しいのと混乱と、これまでの恋心が全部ごちゃ混ぜになって、喉の奥が熱くなる。言葉が詰まって、無理に吐き出せば余計なことまで言ってしまいそうで、ぎゅっと唇を噛んだ。
そんな私の顔を見てどう捉えたのか、彼の表情が厳しくなる。
「切りましょうか?」
「ダメーー!!」
指先から炎を出して焼き切ろうとするアズくんの腕に取り付いて止める。もちろん赤い糸の付いていない右手でだ。
「絶対ダメ!」
アズくんが目を丸くしてこちらを見下ろす。彼の前でこんなに大声を出したことがないからだろう。私は彼の前ではなるべくお淑やかな女の子でいようと努力していたのだ。まぁ、これまでも上手くいっていたとは言えないけれども。
「もしかしてこれが何か知っているのですか? もしやイルマ様も!?」
彼も朝起きると指に糸が結ばれていた。家人の誰にも見えないので入間くんに相談しようと思っていたのだという。
私に代わって入間くんが今朝私の指にも糸が結ばれていたこと、おじいちゃんが悪い物ではないと判じたことを説明してくれる。
その間、私はじっと彼の指先を見つめることしか出来なかった。
「もし、糸が切れたり解けたりしたらどうなるのですか?」
「……」
アズくんが今度はこちらをじっと見つめて尋ねる。でも彼に運命の恋人の話なんか出来るわけがない。
その間にもアズくんは答えを期待した眼差しをこちらへ向ける。――何も考えられなくなった。
「……し、死ぬ」
「死ぬ!?」
私にとってはそれくらい大事なものなのだ。
入間くんには色々バレてる気がするけれど、こうなったらなりふり構っていられない。
「おじいちゃんも切ったりしたらダメだって言ってたし! この糸がすごく大切なものかもしれないし!」
「大切?」
もう全てにおいて墓穴を掘っているような気がしてならない。
「その、なんとなく、私にはそう思えるっていうか……」
「なるほど」
曖昧でこれほど根拠のない言い訳はないと思うのに彼はすんなり納得して私の言葉を飲み込む。何だか騙しているような気がして罪悪感が浮かんだけれど、本当の理由なんて言えるはずがない。
――あなたとの運命を繋ぐものだから切りたくない、だなんて。
アズくんが自分に結ばれた糸を改めてじっと見つめている。突然現れた、意味の分からない糸なんて気色悪くて今すぐ取ってしまいたいだろう。しかもそれが私とだけ繋がっているだなんて、赤い糸の伝説を知らなくったって意味深だ。
自分の我儘加減にうんざりしていると、彼が視線を上げてこちらを覗き込む。
彼の赤に近い色の瞳がいつになく濃く見えた。彼が目がまるで春の花を見つけたかのようにやわらかく細められる。
「それほど大事なものならばこのアスモデウス、命を懸けてこの糸を守りましょう」
彼が私の前に跪いて誓う。その瞳は真っ直ぐにこちらを見つめていて、私の心臓はドキドキと大きく暴れだす。
いつもなら大げさだなぁと笑うようなところなのに、今回ばかりは泣きそうになるのを堪えた下手くそな笑顔でしか笑えなかった。
2021.09.26