「アズー、ここ分かんない」
「教科書読め」
「読んでも分かんないから聞いたのに……」

 テスト前の勉強会。問題児クラス全員で集まってたはずなのに、今はふたりきり。
 他のクラスメイトは数分前に飲み物やおやつを買いに行ってしまった。私と彼を残して。
 私も気分転換に買い出しに行きたかったのに、アズに「逃げるな」と捕まってしまった。皆が出て行く少し前にアズに分からないところを質問して、聞いておきながら理解を放棄しようとしていたタイミングだったから運が悪かった。アズは変に面倒見が良いから、サボろうとする私を見逃しはしなかった。
 まるで示し合わせたかのように一斉に教室を出て行く彼らの背中に「私の分も買ってきてー!」と頼んだが、果たして聞き届けられただろうか。

「皆遅いね」
「すぐに帰ってくるだろ」
「今ごろ皆どこかに遊びに行ってるかも」
「だとしても貴様は勉強に集中しろ」

 窓から差し込む光はもうすっかりオレンジ色に染まっている。「終わらないぞ」と言う彼の言葉はもっともで、私のプリントはまだ白い部分が目立っていた。
 カリカリと紙の上を走るペンの音。開いた窓の外で木の葉の擦れる音すら拾ってしまう。

「えっと……これであってる?」

 尋ねると隣に座っていたアズがこちらの手元を覗き込む。それに私は思わず大きく仰け反った。ふわりと彼からはいつも上品な良い香りがする。
 他の皆がいたときには気にならなかったのに、ふたりきりになると広いテーブルに隣り合わせで座っていることを妙に意識してしまう。

「ん。やれば出来るじゃないか」

 そう言って振り返った彼が微笑む。――その破壊力に私は暴れる心臓を押さえ込むので精一杯だった。

 今の微笑みは出来の悪い教え子が珍しく正解したからだ。それが彼に達成感を与えたのだろう。――だから、今のは私に好感を抱いているだとか、親しみを持っているだとか、はたまた特別な感情からくる表情ではないのだと必死で言い聞かせる。

「ま、まぁね!」

 近い距離を意識しないように必死で視線を明後日の方向へ飛ばす。皆がいたときはチャンスと思って勉強を聞けたのに。思いがけずふたりきりになると緊張して上手く喋れなくなる。彼の方は普段と全く変わらない様子で、私のことなんてこれっぽちも意識してないんだろうけど!

「おい」

 呼び掛けと同時に机の上に置いていた左手が何かあたたかなものに包まれる。

「ひっ――!」

 大きな叫び声を上げなかっただけマシだと褒めてほしい。ぎょっとしてそちらを見ると、左手が彼に握られていた。白く綺麗で、それなのに私よりも大きくて筋張った手が、相手は男なのだと知らせている。

「……そんなに私が嫌いか?」

 握った手の強さとは裏腹に、彼の声はひどく弱々しく聞こえた。

「私とふたりきりを避けてる」

 避けてるんじゃない。ふたりきりだと緊張してどうしたらいいか分からなくなっちゃうだけで。彼は頭がいいくせにこういうところで変に鈍感だ。
 好きな人とは近くにいたいけれど、今の関係を壊してしまうのがこわい。

「きらいな、わけないじゃん」

 じわりと滲む涙や、赤くなりそうな頬を隠すように顔面に力を入れて彼を睨み返す。
 “嫌い”の反対だ。こんなに好きなのに。どうして伝わらない? 今私の気持ちがバレてしまったら困るくせにそんなことを思う。

 近寄りがたくて雲の上のひとのように思っていたのに、案外面倒見が良かったり、子どもっぽく笑ったり、やさしい表情を見せたり……そんなひとを好きにならない方がおかしい。

 宝石のように綺麗な瞳が、私の真意を探るように見つめ返している。握られた手がひどく熱い。このままでは火傷してしまいそうだと思った。

「それなら――」

 ――バァンと。大きな音がして教室のドアが開く。彼の言葉は最後まで聞こえなかった。

「どうだった? 何か進展した?」
「バカ、ストレートに聞きすぎ!」

 ガヤガヤと問題児クラスの皆が戻ってきた。彼の視線がそちらに向いた隙に、私は握られていた方の手を引いて、取り戻した。そのことに対してまた何か言われるかと身構えたけれど、彼は「貴様ら〜〜っ!」と炎を出してクラスメイトを追いかけていて何も言わなかった。

「アズのバカ……」

 小さく呟いた声は誰の耳に届くことなく落ちる。
 いつもの喧騒を取り戻した教室の中で、私だけがいつもの調子を取り戻せないままだった。
 

2021.09.20