「ねぇ、サバト興味ない?」

 クラスメイトの女子からそう声を掛けられて、私は思わず目を瞬かせた。

 *

 サバトとは他のクラスの悪魔と交流を広げることが目的らしい。教えてもらうまで知らなかったけれど、聞くところによると皆で一緒にお喋りしたり、ゲームをしたりして楽しく過ごすのだとか。

 クラスメイトにお願いと拝み倒されて断りきれなかった。それに、私はあまり自分から声を掛けにいくタイプでもないから誘ってもらえて良い機会だと思った。新しく知り合いが出来ることに期待でわくわくしていたというのに。

 集合場所のお店の前にやってくると、そこにいたひとりの姿に驚いた。

「ア、アリス様……」
「なぜここに」

 目の前にいるのはよく見知った悪魔だった。――私の、形の上だけの婚約者。

 私と同様に、彼もひどく驚いたように目を丸くさせている。
 かと思えば、次の瞬間には鋭く睨まれた。思わずびくりと体が強張る。しかしそれも一瞬で、すぐに視線は逸らされた。

「行きましょう、イルマ様」

 そう言って同じくこの場にやって来ていたイルマさんを連れ、私の方を振り返ることなく先に行ってしまう。

「もしかしてあのアスモデウス・アリスと知り合い?」
「ええっと、まぁ……」
「そっかー、意外! 他の悪魔はどう? 好みいた?」

 好みとは?と疑問に思いながらも他のクラスの人たちの方へ視線を向ける。アリス様以外にも見知った顔が何人かいるが、向こうは皆男悪魔だ。悪魔は女子より男子の方が多いからおかしくはないけれど、こちらが全員女の子だから勝手に向こうも女子だけなのだと思い込んでいた。

「えっと、あのイルマさんまでいるんですね」
「そう! あの問題児クラスのふたりが来るように調整つけるの結構大変だったんだから〜」

 彼女とふたり並んで小声で喋りながら店に入る。アリス様は前を歩いているけれども、こちらを振り返らない。それどころかまるで私などいないかのように振る舞っているようだった。

 通された個室で、私はアリス様とは一番遠い席に座ることになった。それが良かったのか、悪かったのか。

「アスモデウス・アリスだ」

 順番に自己紹介をするときも、名乗った彼はぐるりと周りを見回したが、その視線は私のところへやってくる前に戻ってしまった。
 私が自己紹介するときも、他の皆はこちらへ注目してくれているのに、彼だけは頑なにこちらを見ようとはしなくて。

 その後も彼はイルマさんの方へ話しかけていて、私と目が合うことはなかった。

「きみ、こういうところに来るの初めてなんだって?」
「え、ええ……」
「あはは、なんか慣れてない感じでかわいーね」
「そう、ですか?」

 他のクラスから参加した男の子に話しかけられても上の空だった。視線の端で彼を追ってしまう。

 彼が女の子に話しかけられ、それに答えているのが見えた。彼も何やら楽しそうに話している。彼が女の子と笑顔で楽しそうに話しているところなんて久しぶりに見た。

「アズくんっておもしろーい」

 女の子の笑う声が聞こえる。

 ――アリス様だってこういう場所に来ているくせに。

 ぐらりとお腹の底で何かが煮え立つような感覚がした。
 多分、彼もクラスメイトとの付き合いで、そして何よりイルマさんの付き添いで来ていることは簡単に予想が出来た。でも、私だってクラスメイトに誘われたから来たのだ。彼と同じように私にだってクラスでのひと付き合いもある。同じような立場なのに私ばかりが無視されるなんてあんまりではないかと思った。

 きっと、この場での私は彼にとって都合が悪いのだ。
 彼が形だけの婚約者である私の存在を疎ましく思うのも当然で。いくら私が彼のことを慕っていたとしても、彼の心が私に向いているわけではない。私が彼に何か言う権利を持っているわけがなくて。ひどく惨めな気分だった。

「どうしたの? もしかして具合悪い?」
「ごめんなさい、ちょっと……」

 そう言って隣に座っていた男の子が心配して覗き込んでくる。向こうは楽しそうに盛り上がっているのに、私が水を差すようなことがあっては申し訳ない。
 少し席を外して落ち着いてこよう――そう思って立ちあがろうとしたときだった。

「真っ青だ」

 上から聞き慣れた声が降ってきた。

 ぐいと腕を掴まれて引き上げられる。視線を上げると、アリス様の紅い瞳と目が合った。その瞳の奥はぐらりと眩暈がしそうなほどの熱が潜んでいるように見えた。

「何かされたのか?」
「何かって?」

 私が質問で返すと、彼は顔を背けて小さく舌打ちをした。彼はこういう姿を私に見せることは滅多にない。
 今日は彼を怒らせてばかりだ。

「出るぞ」

 そう言って彼が腕を引っ張る。その力に逆らえずにバランスを崩しながら何とか立ち上がるも、彼は腕の力をゆるめてはくれなかった。皆の視線がこちらに集まっているのも気に掛けずに、そのままどんどん歩いていく。

「アリス様、アリスさま……!」

 個室を出て、そのまま店の外まで出てしまうのではないかと思えた。名前を呼んで、彼に逆らって足を止めて、掴まれた腕を引き返して、ようやく彼は歩くのをやめた。

「一体何なのですか」

 さっきまで向こうで楽しそうにお喋りをしていたくせに。さっきまで私などいないように振る舞っていたくせに。
 尋ねても彼は答えてくれなくて、また腹の底が熱を持つ。

「――わたし、アリス様が来ると知っていたなら誘いを受けませんでした」

 素直な気持ちだった。
 何故だか今日だけは、私に対して不機嫌そうにする顔を見たくなかった。今日だけは女の子と楽しそうに話しているところを見たくなかった。今日だけは、少しくらい私を見てほしかった。

「さっきの男に連れ出された方が良かったか?」

 何を言われたのか分からずに彼の顔を見つめ返す。“さっきの”というのは隣に座っていた男の子のことだろうか。先程出会ったばかりでまだ何も知らないひとを引き合いに出される意図が見えなかった。

「何をそんなに怒っているのですか?」
「……」

 勇気を出して言葉にしてみせたというのに、彼は答えない。答える価値もないのかもしれない。こちらを振り向いてもくれなかった。

「怒ってはいない」

 嘘だ。怒っているのなら怒っていると言ってくれれば良いのに。あなたに嫌われないためなら直せるところはみんな直してみせるのに。

「でもずっと険しい顔をしていて」

 私が指摘すれば、彼の表情はさらに険しさを増す。鏡で自分の顔を見てみれば彼だって何も言えなくなるに違いない。

「貴女はこの会がどういう目的で開かれているのか知っていて来たのか?」
「もちろん。他のクラスの悪魔との交流会でしょう?」
「……そんなことだろうと思った」

 はぁ、と彼は深い溜め息を吐いて頭を振った。

 彼が私に向き直る。やっと彼の瞳に私が映る。ただそれだけのことに安堵して、ただそれだけのことが嬉しかった。

「別に、心配くらいしたっていいだろう」

 耳に届いた言葉がじわりとゆっくり心に染み込んでいく。彼の声はいつになくやわらかく響いた。

 眩しくて、思わず瞬きを繰り返す。それでも、彼の姿は幻のように消えたりしなかった。私の意識が作り出した都合の良い夢なんかじゃなくて。

「……心配、してくださったのですか」

 思わず目を丸くさせて彼を見上げる。私の唇から漏れた声は思ったよりも小さかった。

「何だ、その気の抜けた顔は」
「あの、余計な心配を掛けてしまったことは本当に心苦しく思っているのですが……!」

 あの場でそこまで自分が具合の悪そうな顔をしていただなんて自覚はなかった。

「まさか、アリス様が心配してくださるだなんて思いもしなくて」

 怒らせているのだと思ったのに、まさかその反対だったなんて。驚きでそれまでの暗い気持ちがどこかへ流れていってしまった。

 心の奥からむずむずとするような、それでいてほんのりとあたたかいものが溢れてくる。

 ついへにゃりと頬がゆるんでしまう。すると、それに反比例するように彼の眉間の皺が深くなる。だらしない顔を直さなければと思うのだけれど上手くいかない。
 ――だって彼は何とも思っていないひとを心配したりしないと思うから。心配して、誰よりも私を優先してくれたのだと。そのことが嬉しくないわけがない。

 ふふと小さく笑い声を漏らすと、その頬をむぎゅと摘まれて左右に引っ張られる。

「あ、ありひゅひゃま……!」
「貴様は本当に呑気だな」

 引っ張ったかと思えば潰されて頬が形を変え、上手く喋れない。きっとおかしな顔になってしまっているのに、彼はやめてくれなかった。

「貴女はなにも分かっていない」

 ひどく切羽詰まったような声。
 ふと、彼の手のひらが頬に触れる。やさしく、まるで壊れ物に触れるかのようにそっと指先が肌を撫でる。その手がひどく熱く感じられた。

「なら、教えてください」

 あなたのことなら何でも知りたいの。
 そう思うのに、彼はますます苦しそうな表情で私を見つめ返すだけで。

 扉の向こうの部屋から楽しそうな笑い声が聞こえる。しかし、それも膜を一枚隔てたように遠い。

「本当に、このまま攫ってしまおうか」

 そんな言葉をぽとりと床に落とした彼は、これまで以上に私の指先をやさしく掴んだ。
 

2021.09.18