「先輩っ! 勉強を教えてください!」

 瞳を期待で輝かせ、ほのかに頬を紅潮させていつも以上にきらきらしい後輩の頼みを断れる者がいるのならぜひお目にかかりたいくらいだった。

 *

 どこで勉強しようかと考えたときに真っ先に候補として上がったのが図書室だった。
 学年も違えば師団も違う私たちが集まれる場所はそんなに多くない。勉強するなら机のある静かな場所が必要だ。

 何故だかこちらを慕っている後輩の頼みを断りきれなかった私は、彼を引き連れて図書室の扉を開けた。

「あら、意外な取り合わせ」

 声の主は図書師団の一員で、この図書室で司書のような仕事もしている女生徒だった。図書室に来たときによく顔を合わせ、そのときには挨拶をするような仲だ。
 彼女はカウンターの向こうで貸し出し業務の傍ら、本の修繕をしているようだった。紙には古い魔術の方が相性が良いらしく、彼女の手元では見慣れない陣が浮かんでは消えていく。

「今日は素敵な彼氏が一緒なのね」
「あはは、彼氏じゃないよ」

 振り返るとアズくんが何故だかがっくりと肩を落としていた。私と恋仲であると勘違いされたことに呆れているのだろう。本当にどこをどう見たらそう見えるのか。

「ただの後輩」
「あら」

 誤解のないようきっちり訂正しておいたが、彼女は何だかおかしそうに笑った。

「彼が勉強を教えてほしいと言うから。いつものスペース借りるね」
「他の利用者の迷惑にはならないようにね」
「もちろん、ちゃんと静かにしますよ」

 彼女に軽く頭を下げて別れ、図書室の奥に進む。
 手前の方はまだ騒がしかったが、奥に進むにつれて静かになっていく。

 図書室のこの厳かな空気が好きだった。

 窓から差し込む黄金色の陽が落ちる通路を歩く。陽に照らされて空中を静かに舞う埃が透けて見える。
 独特の紙の匂いも、落ち着いた雰囲気も、悪魔学校の他のどことも違う。

 後ろをついてくる後輩はやけに静かだった。コツコツと響く靴の音だけが彼の存在を知らせている。

「……先輩は“ただの後輩”にもお優しいのですね」

 靴音が止んだ。
 ぽつりと零すように言った彼の言葉に振り向く。
 やや棘のある言い方はまるで拗ねているかのようだ。真実、視線を逸らして口を真一文字に結ぶ彼の表情は拗ねているようにも見えた。それでいて、どこかひどく苦しそうでもあって。

 彼が私の何気ない一言を気にしている様子なのがひどく意外で、それでいてどこか私の知る彼らしかった。熟れきった果実を潰すように私の胸のずくりと奥が痛む。

 だって、そうでしょう、と言いかけた言葉を飲み込む。アズくんとは“彼氏”とか“彼女”とか“恋人”とか、そういう関係ではないのは事実だ。
 事実だけれども、それだけだと言ってしまうには惜しい感情がそこには横たわっていて――

「さっきはそう言ったけど、アズくんはやっぱり――特別な後輩かな」

 私の声はこの空間に思った以上に響いた。声に乗せた色が思っていたものとは違うように耳に届く。意図せず甘やかすような色だった。

 振り返ると彼はぱぁと花の咲くような笑顔を見せる。優秀だとか直接的な言葉で褒めたわけでもないのにこの後輩はそれだけで喜ぶ。もっと彼に相応しい沢山の言葉で賛辞されることもあるだろうに。
 いつもは涼しげな表情の彼が私のたった一言でここまで変わることが、何だかとてもむずがゆかった。

「先輩」

 彼が私を呼ぶ。その声が弾んでいて、顔を見なくったってどんな表情をしているのか手に取るように分かった。
 分かりやすく喜びを表す彼に、ぐっと胸の奥から何かが込み上げてくるような感覚がする。胸の中が熱いもので満たされて、口から言葉の形になって飛び出てしまいそうになる。
 それを振り切るように私はわざと明るい声を出した。

「はい、着いた。ここが私のお気に入りの席よ――ちょうど日が当たって、奥まった場所にあるこの席は勉強にはぴったりでしょう?」

 学年が上がると図書室によくやってくる生徒にはそれぞれ“お気に入りの席”というものが出来上がってくる。たまに図書室に来る程度の生徒は奥の方にはあまりやってこない。ぽつんぽつんと座る生徒たちは皆ここの常連だ。

 ここはちょうど棚の影で他からは見えにくくなっていて、それでいて夕方は窓から差す陽が心地良い。まるで外界から切り離されたような、秘密の場所。私の特等席だった。

「……ここを、私に教えて良かったのですか?」

 お気に入りの場所だけれども、彼になら教えても良いかと思った。

「椅子は二脚あるから」
「ありがとう、ございます」

 彼の頬がほのかに赤く染まって見える。薔薇色の瞳はかすかにうるんでいた。
 本当に、私は大したことをしていないのに。

「じゃあ、始めよっか。分からないところがあれば聞いて」
「はいっ!」

 彼から向けられる視線が何だか落ち着かなくて、机の上に鞄を置いてそそくさと座る。彼も向かいに腰掛けて鞄の中から教科書やら問題集やらを取り出す。その唇から「ふふ」と小さな笑い声が漏れていることに気付いた。

「アズくん何だか楽しそう」
「先輩にこうしてふたりきりで勉強を見てもらえることが嬉しくて」

 そう言って彼が机に肘を付き、じっとこちらを見つめて目を細める。

 高々勉強を見るだけではないか。成績優秀な悪魔だ。私から教わらなくたって、学校で習う勉学など彼はきっとすんなり理解する――それなのに彼は何故だか私を必要とする。

 あたたかな午後の日差しが彼の髪の毛を透かしている。本に囲まれたここは、私たちの息遣いも吸収して隠してしまいそうなほど静かだ。
 まるで世界にふたりきりになったように。

「わたしで良ければ、いくらでも」

 思わず口をついた言葉は、以前彼の零した言葉によく似ていた。
 

2021.09.05