「危ない!」

 ぐらりと体が傾いた瞬間、焦った声と手首を握られる感覚がして。覚悟していた衝撃はなく、ふわりと上品で、それでいてどこか泣きたくなるような香りに包まれた。

「いたた……貴様はちょっと目を離すとすぐこれだ。もっと注意力を持て!」

 先輩の言葉に上半身を起こすと、先輩が私の下にいた。先輩の手のひらは私を抱きかかえるように背中に回されている。おそらく先輩は私を庇って下敷きになってくれたのだろう。
 早く謝ってお礼を言わなきゃと思うのに、今までにない近さに思考がぐるぐると回る。

「アズ、せんぱい……」

 彼の長い睫毛も、それに縁取られたまるく見開かれた紅玉色の瞳も、額にはらりとかかる髪も、とてもよく見える。
 この瞳の中に今、私の姿が映っているのだろうか――きっとそうだ。

「……アズ先輩、好きです」
「貴様この状況で何を言ってるんだ。早く退け!」
「この状況だからですよ」

 私を助けてくれた、やさしい人。私の目には狂いはなくて、やっぱりこの人が好きだと思う。思いが溢れて、苦しい。

 先輩の上に馬乗りになっているこの体勢では、先輩には私しか見えていない。私の方が優位な体勢で、先輩には逃げられずに私の話を聞いてもらえる。

「早く私のものになってください」

 堪えきれずに唇の端を舐める。そこに先輩の視線が注がれて、彼の頬がまるで爆発したかのように一気に真っ赤になった。

「きっさまは……! もっと慎みを持て!」
「そんなの無理ですよ」

 きっぱり言い切った私の言葉に、彼の目が丸くなる。そんなに驚かせるようなこと言った覚えはないのだけれど。

「好き。ほしい。――そういうのを我慢出来る悪魔の方が少ないと思いますよ?」

 悪魔は飽きっぽい。その一方でほしいと思ったものにひどく執着することがある。私もその例外ではないというだけのこと。
 アズ先輩がほしい。このどろどろとした気持ちを恋と呼べるのか分からない。それでも、私はこの感情しか知らない。

「実力行使に出られたら楽なんですけどね〜」
「それは無理だろう」
「分かってますよぅ」

 アズ先輩は学年首席で、位階も上の実力者だ。私なんかの力でどうこう出来るはずがないことは分かってる。例え不意打ちでだって無理だろう。返り討ちにあうのが関の山である。
 今だって、先輩は力尽くで私を退かそうと思えば簡単に出来るのだ。

「――だから私は、アズ先輩自ら罠にかかりに来てくれないかなってずっと思ってるんです」

 手を伸ばして彼の頬に触れる。珍しく振り払われなかった。
 彼の目を見てにっこり微笑むと、彼は「うっ」と小さく言葉に詰まった。

 早く、ほんの少しだけでも、彼が私の魅力に気付いてくれたらいいのに。

2020.07.11