「アズせんぱーい!」

 私が大きな声で呼びかけると校門を出ようとしていた彼は振り返って――私の姿を見とめると前を向き直してそのまま歩いていってしまう。

「待って、まってください!」
「なんだ、貴様か」

 絶対さっき振り返ったときに見えていたはずなのに、たった今気が付いた気が付いたように言う。基本的に彼は私に対して冷たい。
 全力疾走で切れた息を整えながら、彼を逃がさないようにぎゅっと腕を掴む。そんな私を見下ろすアズ先輩の姿は、日の暮れた夜の中でも一際眩しく見えた。

「偶然ですね」

 毎回アズ先輩の背中を追いかけているおかげで、私の足は以前よりも格段に速くなった。彼の腕を掴んで引き止める力も強くなったに違いない。

「アズ先輩ひとりですか? だったら一緒に帰りましょう!」

 きっと、いつものように一人で帰れと言われるのだと思っていた。しかしこんな大チャンスをみすみす逃す手はない。断られたら次は何と返そうかと考えていると、私から視線を逸らして空を見ていたアズ先輩が小さく口を開いた。

「……そうだな」

 断られることに慣れすぎてしまっていたから、一瞬彼の言った言葉の意味が分からなかった。

「えっ……」

 彼の『そうだな』というのは、私の言葉に対する肯定だろうか。つまり、勘違いや聞き間違えでなければ、私と一緒にふたりで帰ってくれると言う意味で――。
 今までこんなこと一度もなかったのに。無理矢理先輩の腕を取って半分彼を引きずりながら帰ったことはあったけど、こんなふうに最初から彼が同意してくれることなんてこれからもずっとないのだと思っていた。

「私が言うのも何ですけど、アズ先輩どうしちゃったんですか?」

 おかしなものでも食べた? それとも頭でも打った?
 もしかして帰る前に保健室に寄って診てもらった方がいいのかも。それなら彼を引きずっていく方向を変えなければと思っていると、パッと彼が手を広げて、絡めていた私の腕が振り払われる。

「それはこっちの台詞だっ! こんな遅くまで学校に残って、こうどうして貴様はいつも危機感が――」

 勢いよく言ったあとにそこで彼はぱっと言葉を止めた。

「なんでもない」

 その先が聞きたかったのに。でもその先は聞かなくても分かるような気がした。

「ア〜ズせんぱいっ!」
「絡むな」
「それは無理ってもんですよぅ」

 顔を覗き込もうとしても、先輩は頑なに顔を逸らして目を合わせてくれない。
 それでも、私は口元がへにゃりとゆるむのを止められなかった。

「送ってってくれるんですよね?」
「〜〜っ! 早く行くぞ!」
「はーい!」

 先輩の耳の先がほんの少し赤い。いつもは美しくて格好良い先輩がちょっとだけかわいく見える。

「アズ先輩、手! 繋いでください!」
「うるさい!」

 調子に乗るなと、また振り払われると思っていたのに、パシッと叩かれた手は意外にもそのまま握られて。彼の大きな手にやさしく包まれる。

「どうした。ほら、さっさと帰るぞ」

 言葉はいつもと変わらないのに、どうしてか今日の彼の声色はやわらかく聞こえる。
 動かない私の手を彼がゆるく引っ張る。それでも私はまだ俯いた顔を上げることが出来なかった。

「……だって、本当に握ってくれるんだもん」

 小さく呟く。これで好きになってしまわない方がおかしい。彼は、これが私にとってどれだけ嬉しいことか知らないのだろう。

「何か言ったか?」
「何でもありませーん!」

 明るい声といつもの笑顔を張り付けて顔を上げる。こんなところで泣き出してしまったら先輩に変なやつだと思われてしまうから。

「せっかく手繋いでもらえたのに早く帰っちゃったらもったいないじゃないですか」

 私がそういうと、先輩は呆れたように「はぁ」と溜め息をついた。
 もう一生、家に辿り着かなくていいのに。

 先輩の後ろ姿の向こうに、小さな星たちがきらきらと瞬いていた。

2020.07.10