彼女が人間界に帰った。


 彼女が人間だと知ったときも驚いたが、何故だかそのときはこうしてお別れが来ることを考えなかった。今思えば真っ先にそのことに思い至って、怯えても良さそうなものだったのに。
 気が付いたときには、もう遅かったのだ。

「どんな姿であれ、もう貴女に会うことはないのだと思っていました」

 そう言葉を落とせば、彼女はちょっとだけ困ったように笑った。
 ――懐かしい。思い返せば、自分は彼女にこんな表情ばかりさせてしまったように思う。

 半分透けている彼女は地面からちょっとだけ浮いたところで、にこにこと笑顔を浮かべてこちらを見ていた。

  ◇

 彼女の存在は案外すぐ生活に馴染んだ。

 食事も排泄も睡眠も必要ないらしい彼女は共同生活するにあたって差し当たり不便はなかった。向こうの景色が透けて見えることと、喋れないことと、ふよふよ浮いて移動すること以外は。今さらながら、以前の彼女は人間であったために飛んで移動することはなかったことを思い出した。

 食事は必要ないが、食べたいという気持ちはあるらしい。彼女は朝食を食べる私の姿をじっと見ていた。

「食べますか?」

 スプーンを差し出せば、彼女は一瞬瞳を輝かせたあと、それの示す意味に気が付いてすぐに顔を真っ赤にさせた。

「はい、あーん」

 結局、欲には勝てなかったらしい。
 彼女が大きな口を開けているところにスプーンを差し出す。パクリと彼女の口が閉じたあとに、スプーンを引いたのに、その上の食べ物はそっくりそのまま残っていた。

 彼女は驚いた顔をしながらも口はモグモグと動かしていたから、本人には食べている感覚があったのだろう。ごくりと彼女の喉が動いて嚥下する。

「なるほど。こうなるのか」

 彼女と自分の手元を見比べて、ちょっと悩んでから食べ物の残ったスプーンをひょいと自分の口の中に入れる。
 彼女はそれを信じられないものを見たかのように目を丸くさせて見ていた。

「〜〜っ!!」
「こうしなければもったいないので」

 これ以上ないくらい真っ赤な顔でこちらをぽかぽかと叩いてくる彼女に言い訳する。いくら叩いたところで痛くはない。

 口の中の料理は味も食感も変わらない。それが何だか不思議だった。
 それを十分に味わってから、カラトリーを持ち直して食事を続けようとしたのだけれど、それは空を切ってこつんと食器ではない別の何かに当たった。
 視線を前に戻すと、目の前にあったはずの皿がなくなっていた。

「なっ……!?」

 思わず声を驚いたあと、ぱっと彼女の方へ振り向くとその手には皿があった。こっそり取り上げたのだろう。きっと先程の意趣返しだ。

 彼女はお腹を抱えて笑っていた。

 半分透けてても、喋れなくても、彼女は十分以前のままの彼女だった。

  ◇

「それって幽霊なのかな?」

 所用で空けていたイルマ様に話が出来たのは、彼女がやってきてから数日後のことだった。
 彼は私の話を驚きながらも、嘘だと断じることもなく、かと言って笑い飛ばすこともなく、真剣に聞いてくれた。そして彼はいつも私にはない知見を与えてくれる。

「ユーレイ?」
「幽霊っていうのは死んだ人が姿を現したもので――って彼女は死んでないと思うけどね!?」

 彼女の生死など私にはすでに知る術はないが、彼が言うのならまだ生きているのだろう。
 数日前まではそのどちらであっても、ふたつに違いはなかった。

「生き霊……っていうのもなんかイメージ違うけど。なんて言ったらいいのかなぁ」

 そのあと彼は一生懸命説明してくれたけれども、タマシイだとかテンゴクだとか私には難しくて全てを理解することは出来なかった。ただ、そのユーレイというのは強い思いを持っているのだという。

 だが、もしもその人の思いの強さで姿が現れるというのなら、彼女の未練は一体何だったというのだろう?

  ◇

『私、人間界に帰ることにしたの』

 彼女はそれを一番初めに告げる相手に私を選んだ。

『ずっと、帰りたかったのですか?』

 何故だか私はそのときまで彼女はずっと魔界にいて、これからもずっと隣にいると信じて疑わなかったのだ。

『……うん。帰れることになってうれしい』

 さようなら、と言った彼女の目の端はきらりと小さく光っていた。

  ◇

 私が日中出掛けている間、彼女が何をしているのかは知らない。
 彼女なりにやることがあるのか、それとも私以外の誰かに会いに行っているのか、はたまたぼんやりとこの部屋で私の帰りを待っているのか。

 ただ、私が帰ってくる時間には必ずこの部屋にいて、こちらの顔を見るなり表情を輝かせて駆け寄る姿は私の心を満たした。

「今日は一緒に寝ますか?」

 この部屋のどこからかカードを見つけ出してきてそれをタワーのように積んでいた彼女の動きがぴたりと止まる。はらりと手からカードが落ちた振動で、タワーが全て崩れた。

「冗談です」

 そう言ってベッドに潜り込む。いつもよりシーツがひんやりと冷たいように感じた。

 ごろりと寝返りを打って彼女の方へ顔を向けると、まだ頬を赤くさせて、冷ますようにぱたぱたと忙しなく手で仰いでいた。
 その顔を見ていると、また意地悪を言って困らせてやりたいような、反対にもう何もしないと言って安心させてやりたいような、相反する気持ちが交互に現れる。

「……でも、ひとりが寂しい夜は誰にでもあるだろう?」

 半分独り言のように零すと、彼女はこちらへ近付いてきて私の頭をそっと撫でる。やさしいのだ。彼女の唇が小さく動いて、どこからか懐かしいメロディが聞こえてくる気がした。彼女の声は聞くことが出来ないはずなのに。

 そのやさしい手のひらがひどく心地良く、いつの間にか私は眠っていた。

  ◇

 ザァと強い風が吹いた。
 目の前がピンク色で埋め尽くされる。本来なら息も出来ないくらいの強風なのに全く苦しくなくて、これは夢なのだと気が付いた。

「アズくん」

 私の名前を呼ぶ声がする。ピンク色の花吹雪が止んで彼女の姿がはっきり見える。
 彼女は風になびく髪を押さえながら、眩しそうに目を細めた。

「夢なのかな」

 そう言ってこちらへ近付いてくる彼女の足音が聞こえる。彼女が一歩歩くたびに足元の花びらが小さく舞った。

「アズくんのこと思い出しちゃって」
「そうですか」

 あんなにも、もう一度彼女と言葉を交わしたいと思っていたのに何故だか気の利いた言葉ひとつ出てこない。
 彼女が私の隣に並ぶ。その頭が随分下にあることに驚いた。彼女はこんなに小さかっただろうか?

「こっちは桜の咲く季節なんだね」
「そちらはもしかして雪が降っていましたか?」
「正解」

 彼女がころころと笑う。
 彼女の髪に付いた白い結晶は、触れると溶けて消えた。

「いつの間にか一年も経っちゃったね」

 彼女はなんてことはないように、ただ懐かしむような響きで言う。
 その声色に、一瞬で胸の奥が炎で燃え上がるような感覚がした。自分もこれまで普通に日々を送っていた。それなのに、何故だかそれがひどい裏切りのように思えたのだ。

「人は――」

 すぐに彼女が次の言葉を紡がなかったら、自分が咄嗟に何を口走っていたか分からない。

「人は声から忘れるって聞いたことがあるけど、私はまだアズくんのこと忘れてなかったんだなぁ」

 そう言う彼女の声色からは私のことを忘れたいのか忘れたくないのか分からなかった。出来れば後者であってほしかった。

「アズくんはもう私のこと忘れちゃったかな」

 視線を落として、「魔界と人間界は時の流れも違うし」と小さく零す。忘れてしまうのは貴女の方ではないのか。人間の一生は短いという。その短い生の中で、私の存在はどれだけを占めていられるのだろう。

「貴女は相変わらず残酷だな」

 どこまでも残酷で、美しく、いとおしい。
 自分から遠くに行ってしまったくせにこんなことを私に聞かせるなんて。

 私が貴女のことを忘れることなんて、きっとないのに。

  ◇

 夢を見ていた。
 目が覚めると、彼女がじっとこちらを覗き込んでいた。心配そうな表情で私の額に手を当てて熱を測ろうとする彼女を片手で制して起き上がる。

 パジャマは汗でぐっしょりと濡れているくせに、口の中はカラカラに乾いていた。まるで悪夢でも見ていたみたいだ。それなのに何故か心の中はあたたかいもので満たされていた。夢の内容は朧げでほとんど覚えていないというのに。

「貴女はユーレイなのですか?」

 そう問えば、彼女はまた困ったように笑う。半分透けた彼女は言葉を返せない。

「貴女は本物? ――いや、そんなことは今さら関係ない」

 今の彼女の姿が何であれ、変わりはないのだ。

 彼女の手を取る。ほっそりとした白い手首は少し力を入れたら折れてしまいそうだと、以前から思っていた。

「私は、貴女のことを愛しています」

 彼女を忘れたくなかった。忘れてしまうのが怖かった。けれど、私が彼女を忘れてしまう日なんてきっと永遠に訪れない。そんなこと、最初から心配する必要はなかったのだ。理由はたったひとつだけ、私が彼女のことを好きだから。

「貴女は、どうですか?」

 悪魔は欲のままに動くべきだ。欲しいものは何であれ手に入れる。自分にはそれだけの力があるのも分かっている。あとは、やるだけ。

『アズくん』

 彼女の口が私の名前を形作る。答えはただそれだけで十分だった。残りは会ったあとに聞けば良い。

 彼女の腕を引くとその体がすっぽりと腕の中に収まる。心臓の音はひとつだけしか聞こえない。けれど、不思議と彼女の体温は感じられるような気がした。

 ぽろりと彼女の瞳から落ちる一雫の涙の意味を、私はもう知っているのだ。

2020.05.22